スラウェシ島・洞窟壁画撮影行 4日目

朝早く起きる。テーブルにはキャッサバを油で揚げたものが盛ってあり、コーヒーと紅茶が。朝揚げたイモをコーヒーで食べるのか、マクドナルドみたいじゃない。ホクホクしていておいしいが、やはり二日酔いが気持ち悪くてあまり食べられない。それにこちらのコーヒーにはかならず砂糖がしっかり入っていて、それも胃にもたれる。甘いコーヒーをちびちび飲むのが普通なようで、私がすいすい飲んでいると、こんなに速くコーヒーを飲む人を初めて見た、と皆が。裏庭に大きなコーヒーの木があり、ちょうど実が熟していた。コーヒーの木はほうっておくとこんなに大きくなるものなのか。完熟した実をかんでみた。とても甘い。

さて、そろそろ出発かなと思っていると、奥の方でカチャカチャ食器のなる音が、まさか...と思っていると、朝食ががっつり並べられていた。
「さっき食べたじゃないか、イモを!」というと、あれは朝食じゃないよ、朝食までのつなぎでしょ、と。もう勘弁してください、決して味が気に入らないわけではない(実際、味付けはクセが無くおいしい)けれど、もう限界なんです。
みんなは朝からご飯を山盛りにしてモリモリ食べていた。どうなってるのか。

アクラムが朝散歩していて、この実を拾ったからあげる、と、ゴルフボールらいの茶色い実をくれた。種はスパイスに使うんだ、と。こちらでは料理に欠かせないもので、特に珍しくはないようだが、私がずっと木の実を拾っているので、気を利かせて拾ってきてくれたのだ。後でわかったが、ククイという名だった(写真右3つ)。

今日は山登りだ。BPCBにUhallieの写真を送って、私は是非この絵を見たいと伝えたところ、ここは大変アクセスが難しい所だと聞かされていた。山歩きを6時間する必要があると。それも結構急な山道だという。アワルディンが案内してくれるのだが、荷物を少し持ってくれることになった。そして、お昼ご飯があるからもう一人荷物運びが必要、と話している。お昼ご飯がそんなに重いのか....。オーストラリアのジョワルビナでスティーブ・トゥリーザイスに案内してもらった時など、昼食無しでぶっ通しで6時間以上歩いたのを思い出した。(それは、彼が何時間歩くとか、お昼ご飯を持っていけ、とか何も言ってくれなかったのがいけなかったのだが.....。)わたしは今日、リンゴひとつくらいあれば十分なんだが。

最初はこの日も山から降りて村に泊まる予定だったが、がんばればマロスに戻って、最終日の明日別の洞窟が見られるというので、Dodoに夕方から運転してもらうように頼んでおいた。彼は運転もあるし、体力的にきついので山登りはやめておく、と。
川を渡るというのでカメラを入れるドライバッグを持ってきたが、乾季の終わりなので、水深は深い所でも30センチほどだった。雨季には渡れないのだろう。
山登りはさほど大変でもなかった。きつい登りは1時間強で、後は大したことはない。でも、アクラムらが「こんなに大変な場所にある岩絵って他に行ったことある?」というので、まぁ、ある、というと、えぇ? という反応。うーむ都会っ子。これはそんなに大変な山登りではないでしょ。


山の上に上がると、皆が「お、電波が来てる」と。村は携帯の電波の圏外だが、上に上がるとつながるのだ。電波の来ない村でも、多くがスマホを持っている。普及率は大変なものだ。電波の利用料もとても安い。スマホの普及で皆が写真を撮るようになった。インドネシア人のグループ旅行者を見ると、みなスマホをかざしながら歩いている。また、外国人と見るや、一緒に写真を撮ってくれと言ってくる。今回も随分写真を撮った。

山の中は美しい蝶がたくさん舞っている。山道はおそらく別の村とつながっている生活道の一部なのだと思う。道は茂った草の様子からあまり人が頻繁に通っているようには見えなかったが、牛も放牧されているし、人の手が入っている山だ。途中に小さな家があり、黒砂糖を煮詰めていた。木造の伝統的な高床式の家だ。アワルディンの従兄弟の家だという。登り3時間と聞いていたが、2時間強で洞窟に着いた。山の高さは600m無く、実際に上ったのは200mくらいか。高尾山に麓から上るよりもずっと楽だろう。


Uhallieの洞窟は開口部が高い位置にある。入口にかけられた竹のはしごが少し朽ちていた。ここは滅多に人が来ないので柵も何もない。



入ってすぐ、正面奥の壁面に目当てのアノアの絵があった。本当にいい絵だ。保存状態もいい。この写真をナショジオで見なかったら、スラウェシ島の壁画をどうしても写真にとは思わなかったかもしれない。アノアの顔の前に手形がたくさんあるのだが、その配置もいい。アノアの口が少し開いているので、何か手のひらと会話しているかのようにも見える。素朴な絵ではあるのだが、生命力が感じられる。
他にも歩くアノアの絵が複数、バビルサの絵もある。面白いのはアノアの足の下に、地面が線で表現されていることだ。これは岩絵の世界ではとても珍しいことだ。







アノアの絵のある大きな空間の隣に鍾乳石が並ぶ狭い空間がある。緑色の鍾乳石の上の天井部に多くの手形がついていた。絵もいいし、洞窟の形もとてもいい。



いやー、来てよかった、本当にいい絵だし、いい場所です、というと、
「あなたは二人目だ」という。
「え、今年二人目? 少ないね」と言うと、「そうじゃない、外国人でここに来るのはあなたが二人目なんだ」と。
これには驚いた。2010年にアワルディンが写真を公開し、その後、オーストラリアの考古学者が来てから、私が来るまで、インドネシアの学者や政府の職員以外、誰も来ていないのだ。ナショナル・ジオグラフィックで世界中に配信されたのに。こんなにすばらしい絵が残っているのに。それにアクセスが難しいというが、村に泊めてもらえさえすれば、2日あればマッカサルから行って帰って来れるのにだ。
オーストラリアのキンバリー地方を延々4WDで走り、ヘリコプターに乗り、さらに灼熱の日差しの中、川岸を歩いて絵にたどり着いて、暑さでおかしくなって服を着たまま川に飛び込んだ経験がある者としては実に簡単な場所なのだが....。
NHKも岩絵の取材に二度来たらしいが、ここには来なかったと。なんで二度も来て、ここに来ないのか。わからん。けど、二人目と聞いてちょっと気分がいい。

さ、帰ろうかね、というと、「弁当を食べなきゃ」と。うーむ。やっぱり食べますか。
道中アクラムやイムランが「エナジーエナジー」と言いつつやたらとチューブ入りのチョコレートや甘い菓子を渡してくるので、なんだか胸焼けが酷いのだ。こちらでは太いストローくらいのビニールのチューブに柔らかく溶けたチョコが入ったやつが売っている。端を噛み切って吸うのだ。日本の空港で買ったブルボンのアルフォートがドロドロに溶けて一体化してしまったので、これは納得な食べ方だ。赤道近くの国で板チョコななかなか食べにくい。昔駄菓子屋に売っていたチューブ入りチョコレートを思い出した。

みんなお弁当をもりもり食べて下山。思ったよりも早く家に戻れた。
アワルディンが「感想を聞かせて欲しい」というので、ここは本当に素晴らしくいい絵が残っている、もっと広く知られてしかるべきだ、案内してもらって本当に嬉しい、云々と話すところを録画された。そのうちFacebookにアップするつもりかもしれない。

家に入ると奥さんがお茶とお菓子を出してきた。Dodoも長く運転しなくちゃいけないし、早めに戻ろうね、と思っていたが、みんななかなか腰を上げない。そうこうしているうち、奥の部屋でカチャカチャ食器の鳴る音が。ああ、まさか...。「早めの夕食」なのだった。
アクラムに、さっき弁当食べたばかりでしょうが、と言うと、「そうだよね、でも食べないと失礼になるから」と。
とか言いつつ、みんなしっかりご飯を盛りつけて食べている。
失礼になるから、と言うが、食べた後に奥さんに礼を言うでもなく、片づけを手伝うわけもでもなく、皆すっと立って別の部屋に行く。日本であれば、男があまり食器を下げたり洗ったりしない私の親世代(大正生まれ)でも、招かれた家の奥さんには「ごちそうさまでした。おいしかったです」くらい言いつつ、食器を重ねたりくらいはするだろう。せっかくの料理を食べないと「失礼になる」というのは家の主に、ということなんだろうか。が、人の振る舞い方にはそれなりに歴史的な蓄積があるのだ。あまり余計なことはせずに、自分の食器だけ片づけて「ありがとうございました」とインドネシア語で言って頭を下げると、奥さんが驚いて超恐縮していた。
マッカサル周辺の女性はブルカをつけている人が多いが、みなとても開放的な印象で、知らない男性に自分から声をかけてはいけない、というようなことは全くない。一緒に写真を撮ってほしいと何度も声をかけられた。スマホの普及で、外人と写真を撮るのがはやってるのだ。

食事を終えて、いよいよお別れし、再びマロスに。ホテルに着いたのは夜の8時過ぎくらいだった。思ったよりもずっと楽な行程だった。
またビールが飲めるレストランに行く?というので、いや、もう今日は食べられないし、昨日飲み過ぎたので飲まない、みんなはもしかして夕飯を食べるの?と聞くと、そのつもりだと。.....どういう胃をしているのか。帰り道の途中でバナナを買って食べていたし。
明日は帰国だから荷物の整理もあるので、今日はこれで。後で精算するから俺抜きで食べに行って、と言い、結局払うのを忘れて帰国してしまった...。許してほしい。

スラウェシ島・洞窟壁画撮影行 3日目

この日はMaros地方から北東のBone地方に移動する。Uhallieという洞窟に行くためだ。この洞窟の絵はナショナル・ジオグラフィックに掲載されたもので、状態の良いアノアの絵が素晴らしく、アクセスが大変だが、是非見たかった。
目当てのLangi村まで車で5時間ほどかかるが、この日は移動だけなので、市場に寄ってもらうことに。海外で市場を見るのは面白い。
あらゆるものが売っているというような大きな市場ではなかったが、魚や野菜類を売っている所を少し見る。驚いたのはつい最近木の実の本のために撮影したサラカヤシの実を売っていたことだ。爬虫類の皮のような肌の実だが、フルーツだったのだ。試しに食べてみると、少し硬いリンゴのような食感で、味は薄いが甘酸っぱい。完熟したらもう少し甘くなるのかもしれないが。少し持って帰って木の実を借りている小林氏に送ろうかと思ったが、どうも乾燥が難しいようだ。それに検疫の問題もある。結局、数日持ち歩いて、帰る前に汁が出てきたので捨てることになってしまった。


アジの干物が売っている。他、珍しいところでは初日に見たパンの木の実、ジャックフルーツ。食べてみたかったが、試しに買うにはでかい。バナナの花も売っている。
北のPosoの市場で見たようなコウモリとか、驚くようなものは無かった。

途中、Dodoが「蝶は好きか?」と。季節じゃないからあまりいないけど、蝶園があるから寄っていこうという。
二日間、きれいな蝶が舞うのを多く見たが、Marosは蝶が美しいことで有名なのだそうだ。特に、蝶園のある村Bantimurungは、「蝶の王国」を意味している。
蝶は数頭しかいなかった。標本を見ると本当に美しく大きな蝶がたくさんある。死んだばかりのメタリックな青い色の蝶を子供がこっそり渡してくれた。本当はいけないんだけど、あげる、と。売ろうとしているのかなと思ったが、そういうことではないようだ。


山に入る手前で、Dodoがトウモロコシを食べていこうと、道沿いの食堂に入る。蒸したての熱々のトウモロコシを一山買って、塩やライムをふって食べる。小さい、味もごく薄いトウモロコシだ。ほとんど甘味はない。成長しきる前の柔らかいものを好んで食べるようで、Dodoが、「うん、これは17才、柔らかいね。あー、これはダメだな、35才だな。硬くて。」などといちいちうるさい。下手に笑うとさらに下ネタに入っていくので面倒なことになる。


山道に入って道も所々悪路になるが、ちょうど舗装工事が進んでいて、思ったよりもずっとスムーズに進む。日暮れ前にLangi村に着いた。
村にはホテルは無いので、民家に泊めてもらうのだが、随分立派な、新しい家だった。これも予想外だった。行く前は電気も通っていない村だと聞いていたが、発電機があり、夜も居間とトイレには明かりがついている。迎えてくれたのは、Uhallieの洞窟壁画を初めてカメラで撮影して発表したAwaluddinアワルディンだ。彼はMarosの学校に通っていたのだが、自分の故郷にもMarosにたくさんあるような洞窟壁画と同じようなものがあると祖母から聞いたことがあるのを思いだし、探しに行ったという。Facebookに掲載したものが話題になり、それを見たオーストラリアの研究者が訪れ、その時に撮られた写真をナショナル・ジオグラフィックは掲載したのだった。てっきりナショジオのカメラマンが撮ったのかと思っていたが。
アワルディンは30代半ばだろうか。南スラウェシには四つの部族がいる。マッカサル、ブギス、マンダー、トラジャだ。マッカサルは部族の名だったのだ。Boneはブギスの地で、アワルディンもブギスだ。アクラムはマッカサル、イムランはブギス。
アワルディンには子供が4人いる。一番下の2人は男女の双子だ。泊めてもらう家は彼の従姉妹の家で、新築といっていい建物だった。奥さんが出てきて食事を用意してくれた。さっきトウモロコシを食べたばかりなのであまり腹は減っていないが、折角なのでいただく。床に並べて、あぐらをかいて食べる。
山盛りのご飯、魚の干物の素揚げが二種類、バナナの花の煮たもの、そして、謎の鳥のソテー、トウガラシの入ったトマトのソース。みんなよく食べる。




食事の後、クーラーボックスに入れてキンキンに冷やしていたビールを飲むことに。宿泊先の家の人は飲まないが、持って行って飲むのは特に失礼にならないと言うので、買っておいたのだ。飲むのは私とイムランだけだが、Dodoが大量に買っていたので、ちょっと飲みすぎて翌日大変だった。
Dodoは手品で客を楽しませるのが得意で、いろんな手品をしてみせる。カードを使ったり、コインを使ったり、なかなか上手いものだ。家の女性たちにも大いに受けていた。
夜、私にあてがわれた部屋は大きな立派なベッドのある部屋だったが、寝具はない。ここは山あいで結構夜は冷える。酔いざめもあり、すっかり寒くなってきた私は重ね着し、シーツをはいでくるまって寝た。こちらの家は屋根と壁の間が空いているものが多い。おそらく暑いときに熱気がこもらないようにだろう。こちらは台風も来ないようなので、暴風雨で雨が家の中にじゃんじゃん入ってくる心配がないのかもしれない。が、風が入ってきて結構寒いのだ。家の子は半ズボン、半袖で床にそのまま寝ているのだが。


飲みすぎて気持ち悪いし寒い。胃薬を二回分流し込んで、さ、寝ようと思っていたら、隣の部屋で奥さんがなにかカチャカチャやっている。まさか....と思っていたら、アクラムが、「夜食の用意ができたよ」と。
ご飯?さっきあんなに食べたばかりじゃないか。無理だろう。でも、 アクラムが「食べないと失礼になるから」と。わかりました。じゃ、形だけと思ったが、みんなしっかり食べている。ご飯と焼きそば(ミーゴーレン)をまぜて 一緒に食べたり。よく入るもんだねと感心。ちなみにこちらの人は汁物以外手で混ぜて食べる。
もう腹ぱんぱんになって吐きそうな感じで床についた。明日は約6時間の山歩きなのに、こんなに飲むんじゃなかったと反省しつつ眠る。

スラウェシ島・洞窟壁画撮影行 2日目

今日はMaros地方(sub district)から出て、Pangkep地方の洞窟へ向かうことになっているが、その前にガイドのDodoが勧めるRamang Ramangに。ボートで水路を進み、小さな村に行く。石灰岩もっこりした岩山が連なって水面に写る、ミニ桂林のような景色だ。マッカサル近郊ではおそらく一番の観光地(他にこれといって無い)だろう。キャビンの並ぶ、エコ・ヴィレッジ的なホテルも出来ている。

Dodoが結婚式を見ようと言うので、一軒の家に向かうが、凄まじい音量で音楽が鳴っている。ステージで使うような巨大なスピーカーが置かれ、ミキサーのようなものをいじる人、カラオケで熱唱している人がいる。どうしてこんなに凄い音でしかも外に向かって流しているのかと思ったが、どうも、結婚式をやっているということを広くアピールしているようなのだ。実際、今回の旅の途中で、大きな音が聞こえてきたなと思うと、結婚式だったということが他に2度あった。
家に上がると、親族が写真を撮っていってくれ、と。キンキラキンに着飾った新郎新婦が静かに椅子に座っている。テーブルに並んだ手作りのケーキなどをご馳走になる。スラウェシ島はタナ・トラジャでは葬式に参加し、今回は結婚式。全く縁も何もない異国の地で、「どうぞ上がっていって」と言われるこの不思議さ。来客が多いことはめでたいことなのだろう。
Dodoが、普通は新郎新婦同じ色の服を着るんだが、と言っていた。スラウェシ島結納金がとても高く、男にとって結婚はとても負担の大きなことなんだと同行の皆さんが。アクラムだけが独身で、現在貯金中らしい。




その後、同じエリアのKunang Kunangという鍾乳洞に入る。ここは壁画は無いのだが、ともかく鍾乳石が美しいからとDodoが。舟から降りて洞窟に向かう道すがら、プテロシンビウムの実を拾う。最近、木の実の図鑑のために撮影したばかりだ。風をうけて舞うように、袋状の羽根がついている。昨日はウスバサルノオの実を拾った。これも回転して落ちるタイプの種だ。薄い、割れやすい種だが、帽子に入れて持って帰ることに。


Kunang Kunangの鍾乳洞は鍾乳石の襞の美しい洞窟だった。



この後、Pangkep地方に入る。Bonto Lempangan村に入り、Bulu Sipong洞窟に向かう。Bulu Sipongとは英語でいうならLonely Mountainという意味だとアクラム。他の岩山と少し離れて、孤立しているので、そういう名前になったのかもしれない。主な洞窟は3つあるが、先ず中腹のBulu Sipong 2に、岩山をよじ登るような形で入った。ガイドをしてくれる地元の人は2人。
ここには状態は良くないが、舟の絵がある。


魚の絵もあるが、これは言われないとなかなか気づかないだろう。中央に縦長に描かれている。

これはバビルサだろうか。色は鮮やかに残っているが、形がはっきりしない。

この洞窟は開口部が広く、天井も高いが絵はあまり多くない。


さらに、岩山の最上部にあるBulu Sipong 1に。ここは比較的大きな入り口から入って、はしごを上って狭い穴を這って進み、絵のある隣の大きなスペースに入るようになっている。隣のスペースの開口部は断崖絶壁なので、そちらに直接入るのは難しいのだ。


ここには人が乗った舟の絵があり、私はそれを是非見てみたかった。手形を中央に、左右に長い舟が2つ描かれている。右の舟には漕ぎ手と舳先に銛を持った人物と二人の人間がはっきりと描かれている。外海に出るような舟ではなく川か沿岸で魚を獲るための舟なのだろうが、描かれている人間と舟の比率がリアルなものだとすれば、決して小さくはない。舳先にデコレーションのようなものがあるのも気になる。




岩絵のあるスペースの開口部からは、東南アジアらしい農村の風景が見渡せる。

人が片足を上げているような岩があり、みんなで同じポーズで写真撮ろうか、と言ったものの、タイマーが回っている間、私を含め姿勢を維持できない者がいたため、普通に撮ることに。この地元のガイド2人もいい感じの人たちだった。

Bulu Sipongの岩山には近年、手形が70も押してある洞窟が発見されたという。ただ、切り立った岸壁に開いた穴からしか入れないので、入るには本格的にロック・クライミングする必要がある。昨年一年だけでも30以上の岩絵のある洞窟が確認され、絵のある洞窟の総数は二百数十を数えている。三百を超える日も遠くないだろう、とアクラム。


Pangkep地方の洞窟の最後はSumpang Bittaだ。ここは山の上にあり、階段を千段上がる必要があるのでしんどいのだが、とても状態の良いアノアの絵があるようなので、行かねばならない。
Sumpang Bittaのある山の下には学校があり、運動部が階段をランニングしていた。学校の制服や運動部の様子など見ると、結構日本の学校に共通するものを感じる。
ここ数年、急斜面を上るとももが攣ることがあり、なんとかそれは避けたいので、付け焼き刃で筋トレなどしてきた甲斐があったのか、畏れていたほどではなかった。というか、若い二人が意外に苦労していた。だって、都会生活だもん、とアクラム。

Sumpang Bittaのアノアは、残念ながら修復された絵だった。バビルサの絵も複数ある。洞窟までコンクリ製の階段が作られているし、洞窟内にはベンチなどもあるので、おそらく観光地として一般公開しようとしていたのではないだろうか。それが、公開すると落書きがひどく、閉じることにしたに違いない。ここは人が少ないので、デートスポットにもなっているようで、数組のカップルが肩を寄せていた。2人だけになるために千段近く上がらなくてはならないというのも大変な話だが。

アノア、バビルサ、そして舟の絵も修復され、塗り直されているが、よく考えると、修復されていない絵で赤く塗りつぶされている絵は見ない。この旅を通じて見たオリジナルの絵は、全て輪郭と絵を線で描くスタイルだ。ということは赤く中を塗りつぶすというのは、とても修復とは言えないだろう。
塗り直されていたのは残念だったが、アノアはなかなかいい形だ。アノアの腹は丸く張っているし、バビルサも丸々としている。妊娠している雌なのかもしれない。獲物が増えるようにという多産祈願の意味もあるかもしれない。





再び階段を千段降りて帰路に。この日もビールが飲めるレストランに行く。食欲もあまりないので焼きそば(ミーゴーレン)だけにしておいた。私が魚料理など食べないとなると、BPCBの2人も焼き飯(ナシゴーレン)に。結構気を遣う2人なのだった。ビールも昨日と同じ2本飲んだが、料金は半分以下。3人で約1400円くらい。
階下から歌が聞こえて来ると思ったらDodoがカラオケを歌っていた。スラウェシは日本と同じでカラオケ専門の施設もあり、時間払いなのだが、飲食店にあるカラオケはYouTubeにアップされているカラオケ(歌詞つき)をパソコン画面に映し、音はミキサーで増幅・調節して流すというのが一般的らしい。どうも結婚式で流していたのもこれだ。
Dodoが帰り際に日本の歌を歌うというので聴いていたら、五輪真弓だった。インドネシアでヒットしたらしい。私はその曲を知らなかったが。

スラウェシ島・洞窟壁画撮影行 1日目

一昨年に続き、インドネシアスラウェシ島を訪れた。一昨年は中部のBada谷周辺の石像、タナ・トラジャ地方の埋葬文化・巨石の撮影に行ったのだが、今回はスラウェシ島南部に数多く残る現生人類で最も古い年代の洞窟壁画の撮影が目的だ。

2014年、スラウェシ島南部の洞窟に残る手形の年代測定で39900年以上前という数値が出たときは、とても大きな話題になった。絵を覆っていた方解石の結晶に微量に含まれるウラニウムの量から導く方法で出された年代だ。絵のすぐ上の方解石の層でその年代が出たため、その下にある絵はさらに古いということになり、少なくとも39900年以上前という判断になった。
現生人類による絵画は、それまでフランスのショーヴェの洞窟壁画から出た30000-32000年前という数値が世界最古とされていたし、「芸術」はフランスのショーヴェ、ラスコー、スペインのアルタミラなどの「クロマニヨン人」の素晴らしい洞窟壁画から始まった、というイメージが強かった。多くの美術史や美術全集の最初に、「芸術の曙」として登場するのはこれらの壁画群だ。そのため、スラウェシ島の壁画の年代測定値が出たときは、ヨーロッパの新聞記事で「ショック、芸術誕生の地はヨーロッパではなかった!」といった見出しがついたものもあった。4万年前に「ヨーロッパ」も何もありはしないのだが。ただ、実際は既にオーストラリアの壁画で約30000年前という測定値が出ていたし、さらに古いものがこのエリアで出てくるのは時間の問題だと考えられていた。
その後、スペインのエル・カスティージョの洞窟壁画からさらに数百年古い年代測定値が出たため、スラウェシの洞窟壁画は「世界最古」ではなくなったが、それは大した問題ではない。おそらく、今後さらに古い年代が出てくるだろうし、ネアンデルタール人による絵が残っている可能性も議論されている。認知考古学でこれまで考えられていたように、芸術表現は4万年前にヨーロッパで「獲得された」のではなく、人間がアフリカを出る前から行われていたに違いない。

スラウェシ島の洞窟壁画については、『ナショナル・ジオグラフィック』などで記事を目にしていたが、そんなに簡単に行ける場所ではないんだろうと考えていた。ボルネオ島の洞窟壁画が舟で川を遡上し、ロープで高い場所までクライミングするような大変な場所にあるため、どこかイメージがごっちゃになっていたこともある。
が、前回のスラウェシ島旅行の後、洞窟は比較的町から近い場所にあり、普段は施錠されているが、許可さえ得れば見学できそうだということを知った。がぜん行ってみたくなったが、どこに許可を得ればよいか、その方法が分からない。「大学に許可を得よ」と書いているサイトもあり、メールを書きかけたこともあるが、大学の代表アドレスにメールを送って返事が返ってくる可能性なんてほぼ無い。

最近になって、ふと、観光ガイドたちはそのへんに詳しいのではと思い、試しに前回の旅行で世話になったテンテナのヴィクトリー・ホテルのノニに、マッカサル周辺のガイドで詳しい人は知り合いにいないかときいてみた。すぐに返事がきて、マッカサルでガイドをしているDodoを紹介してもらい、そこからとんとん拍子に洞窟壁画を管理している政府機関・文化財保護局=BPCB, (Balai Pelestarian Cagar Budaya)のスタッフを紹介してもらった。自分は岩絵をテーマに写真を撮っている者で、今後、本を書く予定があるので、是非撮影を許可してほしいと自己紹介しつつ申請し、比較的スムーズに認められた。チャットアプリWhatsappを使って連絡すると、勤務時間外でも何か質問するとすぐに返事をくれるし、ここを見ては、という提案もしてくれる。前回の旅行の時も感じたことだが、私が会ったスラウェシ島の人たちは柔和で親切だ。BPCBの人たちの対応もとても役人とは思えない。
見学・撮影については、BPCBスタッフ2名の同行、期間中の日当、宿泊・食事の支払いが条件だった。物価が安いので、さほど大きな負担でもない。5日間という短い滞在だが、保存状態の良い絵が残っている場所を複数回れることになった。

羽田発のANAジャカルタに早朝に着く便に。Batikエアに乗ってマッカサルに11時に着いた。空港にはガイドのDodo、BPCBのアクラム、イムランの3人が待っていた。
Dodoは頭の禿げ上がった、一見60代半ばくらいに見える男だが、私と同い年、しかも誕生日も2日しか違わなかった。観光ガイドらしい陽気なオヤジだ。BPCBのアクラムは28歳、イムランは30歳。連絡していたBPCBの職員がこんなにも若いと思わなかった。同じ職場というだけでなく、友達同士らしい。
洞窟壁画の多くはマッカサルのすぐ北のMaros地方にある。空港からそのままMarosに向かうが、途中、礼拝のためモスクに寄る。前回スラウェシに行ったときはクリスチャンの多い地域だったが、南は圧倒的にムスリムが多いようだ。町ゆく女性たちはほとんどがブルカをつけている。

モスクの前に川が流れていたが、今は乾季なのでほぼ干上がっていた。待つ間、川沿いをぶらぶら歩く。ゴミが多い。一帯は石灰岩のカルスト地形で、採石場やセメント工場が多い。道路際のあちこちに積まれた補修用の岩塊に貝の化石が入っていた。パンの木があり、大きな実がなっている。ジャックフルーツだ。

礼拝が終わり、Leang Leang村に入る。Leang=レアンとは、洞窟のこと、二度繰り返すこの地名はようするに「洞窟がいっぱい」といったニュアンスだ。今回あまり時間が無いし、情報もほとんどなかったので、先方には先ず、39900年という測定値が出た洞窟は必ず訪れたいと伝えた。それがLeang Timpuseng(レアン・ティンプセン)だ。刈り入れの終わった稲田とトウモロコシ畑沿いの道に車を停めると、地元の男性が待っていた。施設の管理はBPCBが行っているが、鍵を管理しているのは地元の協力者たちで、彼らがいないと中に入れない。



洞窟は開口部が広いというか、鍾乳洞が大きく崩落して半分むき出しになっているような感じだ。あちこちで岩絵を見てきたが、鍾乳洞の中にある岩絵を見るのは初めてだ。4-5mほどの高さにある天井に黒ずんだネガティブ・ハンドとほぼかすれてしまったバビルサ(Pig Deer)の絵がある。手形は39900年以上前、バビルサの方は35400年以上前という測定値が出た。

つい最近NHKの科学番組「コズミックフロント」のシリーズで、この壁画を紹介し、氷河期にも孤立した島であったスラウェシ島に人間が渡るには航海術が必要だったはずで、それは星の位置に頼るものだっただろう、とし、この天井につけられた最古の手形はひときわ高い場所にあるので、天に手を伸ばすかのように付けられている、星と関連があるように思えてならない、云々と言っていた。随分てきとうなことを言っているなと思ったが、現場を見てみると、最古の手形はさして高い位置にあるわけでもなく、隣接する部屋にはもっと高い場所に押された手形もさくさんあった。もちろん、低い位置に押されたものもあるし、いろいろなのだ。鍾乳洞なので壁面の凹凸が多く、絵を描くための広い平面は天井部など、高い位置にしかないことが多い。その程度の理由のように見えた。
高い位置=天空=星というのは、きっと現場に来ていない作家が人類の移動というテーマに合わせたいがために、考えついた話なのだろう。
氷河期にスラウェシ島はたしかに孤立していたが、西のスンダランド(インドシナ半島スマトラ島、ジャワ島、ボルネオ島などが一体化した広大な陸地)とは現在のボルネオ島西岸よりもずっと距離が近く、最も近かったときは海峡程度の距離しかなかった。ここに到達するための航海はそれほど難しいものではなかっただろう。もちろん、さらに遠くまで航海することも多かったのだろうが。
有史以前の遺物はあれこれ想像をたくましくできるのが面白みではあるし、私のような専門外の人間が楽しめるのもそのへんなのだが、NHKの場合、個人の旅行記ではなくて「科学番組」なんだから、過去を想像するにしても、もうちょっと質の高いものにしてほしい。


バビルサの方はかなりかすれていて、はっきりしない。壁面には全体に方解石の結晶、通称ポップコーンが散っているが、絵の上に乗っているこれを採取して年代測定している。手形の小指の脇にサンプルを採った四角い穴が空いていた。随分大きな穴が空いているのでちょっと驚いたが、ある程度まとまった量がないとサンプルとして十分でないのかもしれない。

洞窟はいくつかの「部屋」というか、仕切られた空間に分かれている。最も古い年代が出た大きなスペースのすぐ横には手形のある小さな部屋があり、さらに右手にはまた別の空間があるが、そこには非常に高い場所に手形が複数押してあった。天空云々と言うのなら、こちらの方を選ぶべきだろう。オーストラリアでも、パタゴニアでもそうだったが、どうやって上ったんだろうと思うようなとても高い場所に手形がついていることはよくある。NHKが言うように「高さ」に特別な意味がこめられている可能性もあるかもしれないが、単なる遊び心、仲間内で高さを競ったものかもしれない。

Timpusengは水源という意味らしい。その名のとおり、水の湧いている穴がある。天然の井戸として使われいたのだろう。

Timpusengの後は、Leang Jingという洞窟に行く。場所はすぐ近くだ。ここは最初に連絡をしたBPCBの女性に教えてもらった場所だ。人物像があるから面白いのではと。彼女は本当に親切な人でアクラムの従姉妹だということだった。同行したいと言っていたようだが、ボスが女性が加わるのはよくないと却下したそうだ。
Jingは小さな入り口から入り、中は一部真っ暗でライトがないと絵は見えない。細い通路のような穴を抜けると別の開口部に出るのだが、途中くびれていて、光が入らないようになっている。


この洞窟の最大の見どころは髪の毛が逆立った、モヒカンのように描かれた人物像だ。これは髪形なのか、それとも描き方の問題なのか。腰のあたりがすこし太く見えるので、女性ではないかと考える人もいるようだが、腰のラインのように見える線は上半身の線と濃さも色も少し違うので、同じ絵の一部なのかよくわからない。他にも線画が多くあるのだが、かなり石灰質に覆われてしまっていて、判然としない。手形も複数ある。光が入らないせいか、色がよく残っているように見える。Jingは幽霊というような意味らしい。由来はわからないという。



Leang Jingの後は、Leang Leangの先史時代公園に入る。ここは石灰岩の奇岩が点在する、整備された石庭のような公園だが、壁画のある洞窟が2つある。私は最初この場所の洞窟に入ったインドネシア人のブログを見て、洞窟壁画は町からさほど遠くない場所にあると知ったのだ。


先ず、Leang Petta Kereに入る。ここにはバビルサの絵と手形があり、写真は見たことがあったが、なんと、修復というか、塗り直されている。1980年代に公的に行われたものらしいが、考古学的価値を著しく損なうものとして、その後批判されている。塗り直して公開しようと考えたのだろうが、結局、一般公開もしないことになっている(いたずら書きが多いので)。よく見ると、バビルサの脇の手形も輪郭を塗り直しているようだ。ただ、ここの絵は動物と手形のバランスがとても良く、壁面に散った方解石のポップコーン、経年的なかすれ具合、全てが一体化して美しい一幅の絵となっている。




さらに西に300ほど行った所にあるLeang Pettaeに入る。ここには小さな、手を加えていないバビルサの絵がある。発掘調査で、石器や食べた貝の殻などが出たという。



到着早々、ちょっと詰め込み気味のスケジュールをこなし、暗くなってからホテルに。とても大きなホテルだった。フロントで、「当ホテルは煙草、アルコール禁止のホテルです」と言われ、ガクッと来た。暑い中、洞窟の中で這いつくばったり仰向けになったり、汗だくになってきたんだからビールくらい飲ませてほしい。が、南部はイスラム文化圏、店でビールは売っているが、公共の場所で飲める所は多いないようだ。ガイドのDodoに相談すると、飲める店を知ってるから連れていってやる、と。結構な距離車で移動し、暗い裏道沿いにあるシーフード・レストランに。ビンタン・ビールを頼むと、イムランは自分は少し飲めるぞ、と。アクラムは戒律もあるし、体が受け付けないという。どうもイムランはさほど敬虔ではないようだ。二人とも煙草を吸う吸う。イムランは液体を入れて水蒸気を吸う、電子的なやつを吸っている。インドネシアというと、甘いガラムという煙草が一般的だと思っていたが、アクラムはマルボロを吸っていた。

時計荘さんとの合同企画展「石が描く 石と描く」

池袋・三省堂書店4Fのナチュラヒストリエで、鉱物オブジェ作家・時計荘さんとの合同展「石が描く、石と描く」を開催中です。私は私蔵の瑪瑙やジャスパーなどの模様石を展示しています。是非ご覧ください。6月末まで。瑪瑙や風景石の販売もあります。




『奇岩の世界』刊行記念トーク・イベントのお知らせ

2月に創元社から刊行された『奇岩の世界』のトーク・イベントを、4月13日(金)、東京、西荻窪の「旅の本屋のまど」で開催することになりました。『奇岩の世界』で紹介している岩の写真などを写しながら、私がこれまでどんな旅をしてきたか、「奇岩」にはどんなものがあるのか、など、お話させていただきます。
申し込みは以下までお願いいたします。
http://www.nomad-books.co.jp/event/event.htm

アルゼンチン岩絵撮影行その7

昨夜12時くらいまでにフェイスブックのメッセージで今日どうしたいか決めてくれと言われていたが、クラフトビールを飲んで寝てしまった。すんません。
朝、「君にぴったりの案を考えたよ」とクラウディオが。
Cueva de las Manosのエリアに戻り、谷をトレッキングした後、再びCueva de las Manosを見学して締める、というものだ。ちょっと疲れがたまってきたし、明日から40時間以上ぶっ通しで帰らなきゃいけないので、あまり長く歩くのでなければと言うと、大したことない、と。
今日はやはり「大理石のカテドラル」に行けなかった女子大学生ナターリャと一緒だ。ブエノスアイレスの大学で観光学を専攻しているという。

行きの車の中でマテ茶を回し飲み。少し甘味がある。
「これ、砂糖入ってる?」と聞くと、ステビアだよ、と。
「砂糖はダメだって、あんなに話しただろ?」
そうでした。
マテ茶はヒョウタンを切ったボール状の入れ物に茶葉を入れ、お湯をそそぎ、器を手で持って金属製のパイプで飲む。マテはこのヒョウタンのことらしい。ヒョウタンの外側には皮が貼ってある。ブラジルで見たものと同じだ。日本で売られているペットボトルのマテ茶はあまり好きではないが、この方式で飲む少し濃い目のマテ茶は悪くない。回し飲みすることで、少し親密になる感じもある。

最初に入った谷にはほぼ干上がった塩湖があった。虫の死骸のようなものがたくさん落ちている。よく見ると大きなヤゴの抜け殻だ。そういえば、こちらではトンボを多く目にする。大きさも色もシオカラトンボに似ている。塩湖でヤゴが生きられるものなのかと思い、乾いた塩をなめてみたが、塩分はそれほど高くないようだ。南米、ボリビアやペルーの塩湖にはリチウムを多く含むものがあり、資源価値が高まっているが、ここはどうなんだろう。


さらに進むと垂直に切り立った岩壁があり、クライミングをしている人たちがいた。


一度車に戻り、さらに別の谷に入る。
急斜面を降りつつ、これは帰りが大変だな...と思っていると、しばらくして、ナターリャが、「私はもう無理。ひざが痛いからここで待ってる」と。
クラウディオと二人でさらに進むことになった。
ピューマの足跡がある。
クラウディオは最初にここに一人で来たとき、ピューマに襲われるかもと考えたら、怖くて仕方なかったという。
ピューマに襲われた人っているの?」
「いや、聞いたことない。でも、鉢合わせする可能性もあるだろ」
ピューマが獲物を引き込んで食べたらしき跡もあった。乾いた川床を歩くと、雪解け水で流れてきたグアナコの骨がたくさんある。


さらに谷を降りていくと、木の枝を積んだ小屋のようなものがある。小屋というより「囲い」程度のものだ。
Alero Charcamataのシェルターに住んでいたガウチョの家の跡だった。Alero Charcamataを出て、ここに移動したのだ。
枯れた低木を積んだだけの小屋が、風の強いパタゴニアで数十年を経て残っているのだから、彼は「ふさわしい」場所にこの家を建てたと言えるだろう。中には石を積んだ椅子やカップが残されている。
周囲数十キロに誰もいないこの谷にたった一人で暮らす孤独とはどんなものか、想像するのは難しい。
彼の人生について知る者は多くないだろう。だが、彼が最後に暮らした谷には、今彼の名前がつけられている。「アルメンドラの谷」と。


「アルメンドラの谷」からさらに奥へ進むと、さきほどロッククライミングをしていた人がいた「カラコル(巻き貝)の谷」に続いている。ダイナミックな地形だ。深くえぐれたようなシェルターもあるが、絵はなかった。おそらく大昔に川のカーブの部分で水流が削ったシェルターだろう。その少し先をトレッキングの終着点として戻ることにした。待たせているナターリャが気になるから自分は先に行く、君はゆっくり写真を撮りながら戻るといい、とクラウディオが。


このへんは棘のある低木が多いが、種がひっつくものも多い。少し歩くとこんなありさま。靴の中にまで入ってきて辛い。

一人で黙々と谷を歩くと、クラウディオが怖くなったというのがちょっとだけわかるような気がしてきた。ピューマが出てくるのでは、という具体的な怖さではなく、この地形から受ける、圧倒的な無力感とでもいうのだろうか。
急斜面を登って車に戻る。たいしたことはないと言っていたが、今回最もきつい歩きだった。

オーラスでCueva de las Manosへ。最初に見学したときの女性ガイドがすれ違いざま、驚いてこちらの顔をのぞき込んでいった。「この人、四日前に来た人と同じに見えるけど...そんなはずないわよね...」という感じ。今日は少し空いていていい。ガイドとナターリャと私だけだ。たっぷり時間をとってくれた。六本指の手形のアップも撮れて満足だ。
やはり撮り逃していた絵があることに気付く。

「大理石の聖堂」に行けなかったのは残念だったが、当初の予定通り、Cueva de las Manosでたっぷり時間をとることはできた。氷河も見ずにこのエリアに限定した旅にふさわしい終わり方だったかもしれない。
見学を終えると事務所でボスがマテ茶を出してくれた。「あんたも好きだね。満足した?」と。
自分が飲んだマテ茶を差し出してくれたのが、ちょっと嬉しかった。それをクラウディオともう一人のガイドと回し飲みして、「手のひらの洞窟」のラストとなった。



丸一日、フルに使って西日の中を走ってペリート・モレーノまで戻った。
「ほら見て、私たち、影よりも速く走ってる」

アンソニー・パーキンス似のクラウディオともかなり打ち解けてきたが、これで終わり。明日は長距離バスに乗ってコモドーロ・リバダビアに行き、国内線に乗り、ニューヨークでトランジットして成田に帰る。ぶっ通しだ。