『エミリ−・ローズ』と悪魔払い

8月9日に書いた、カナダ人の瑪瑙コレクターからメールが届いた。彼は本当にパナマで暮らしていたようだ。赤ん坊といっしょに浜でくつろぐ写真など多く送ってきた。君の話は本当だったんだね、疑ってすまなかった、カナダ人君よ(と、ここで書いても仕方ないが)。
そのカナダ人君が「あぁ、僕はなんて恐ろしい映画を見てしまったんだろう。絶対に見に行くべきじゃなかった......」と大いに怖がっていた映画「エミリー・ローズ」を先日ビデオで見てみた。19歳の女の子に悪魔払いの儀式を施した牧師が、女性の死の責任を問われ、裁判にかけられる話だ。実話なのだという。エミリー・ローズは大学の寮生活をしていたが、ある夜、目に見えない何かが彼女の中に入ってきて、以後、徐々にそのものに支配されていく。激しい幻覚症状や体がねじ曲がるような痙攣に襲われ、医師の投薬も効果がなく、自宅で悪魔払いの儀式を受けるが、衰弱して死亡するという経過を裁判の進行とともに描いていくのだが、やはり、信仰のない者にとって「悪魔」はどうもピンと来ない。(昔の「オーメン」は結構怖かったが、あれはダミアン君より、狂信的な側女の様子や、自分の子どもに対する疑念がふくらんでいく父親の心理状態が怖かった。「ローズマリーの赤ちゃん」も怯えるミア・ファローの顔がいちばん怖かった)。
エミリー・ローズは自ら悪魔払いを希望し、儀式の模様は録音され、証拠として提出されるが、テープには複数の、19歳の女性のものとは思えない低く濁った「悪魔」の声が入っている。彼女に入っているのはルシファーやベリアルといった有名な複数の悪魔たちであることが、彼らの自己紹介(!)によって明らかになるが、この世の邪なるものを体現するような名だたる方々が何故に寄ってたかって一人の娘を唸らせたり、体をねじ曲げたりしなくちゃならないの? もっと他にすることがあるだろう、と、思ってしまうなあ。カナダ人君は非常に理詰めというか、ドライな合理主義者という印象があったが、キリスト教社会のベーシックな心性のようなものをちゃんと持っているんだな、ということに感心してしまった。
悪魔払いを行う者が「お前は誰だ?」と、問う。「ルシファーだぞ」と言われたからといって、そうかそうか、ではお前にはこの方法で悪魔払いを...というわけにもいかないと思うのだが。悪魔払いの多くの部分は言葉によって成り立っている。相手の名を呼ぶことができるのは儀式を主導する聖職者だけだろうから、「得体の知れないもの」が名を得ることによって宗教的な言葉の体系の中に位置づける=捕らえることが重要なのだろう。儀式を行う者の権威づけにもなる。
そういえば、80年代半ばにイーノとデヴィッド・バーンが共作したアルバム「My Life in the Bush of Ghosts」に悪魔払いの様子を収めた録音を入れ込んだ曲があった。ジザベルという悪魔(悪霊?)を相手に、「ジザベル、出て行け! 彼女から出て行け!」と神父らしき声がダミ声で叫んでいるものだが、この神父は「ダハハハハァー」というような、悪魔的な笑い声を発していて、そっちの方が気色悪かった。ジザベルというのは、旧約聖書に出てくる王妃で、邪神(ユダヤ教からみたら、ということだけど)崇拝を行っていたという。この女が悪霊となって歴史的にみて尼僧などに多く取り憑いたのだそうだ。70-80年代にも多くの憑依事例があったらしい。尼さんが悪魔に憑かれるというと、映画「尼僧ヨアンナ」を思い出す。この録音でも、「Ok,sister」と言っているので、相手は尼僧かもしれない。尼僧院のような自己抑制を強いる相互監視的環境の中で、何かをきっかけに、それまでと全く正反対の抑圧されていた人格が弾け出るということはあるのだろう。女性の悪魔憑きのパターンとして「淫らな言動」というのがあるが、これは女の本性は悪しきものであるというユダヤ=キリスト教的思想にとっての「おそろしい」ものだ。(尼僧が、淫らなことを言っただけで縛り付けられ、いろいろと責められるのであれば、温泉街にある「秘宝館」で連日卑猥な言葉を連呼しつつ案内をしているおばちゃんなど、悪霊の化身のようなものだ)。
エミリー・ローズは農村の敬虔な家に育った優等生で、周囲の期待を背負って都会の大学に進み、寮生活を始めていた。おそらく、珍しいくらい「いい子」だったし、女性が都会の大学に進学するということが少なかった環境で、自身に大きな責任を感じていたに違いない。育った場所と全く違う環境での孤独・緊張と、学内での寮生活という閉鎖的な住空間で起きた異変は、どこか尼僧院で起きる悪魔憑きと共通するものがあるかもしれない。──というようなことは精神分析医が言うようなことで、そうした医学的解釈は本人にとって何ら助けにならなかったではないか、本人は悪魔に憑かれていると確信していたので、それならば、それを払うという行為は意味のあることだ──というのが、当初、弁護人側の主張の大きな柱になっていて、それはそれで説得力があるのだが。映画は(どこまでが実話に基づくものかわからないが)信心の無かった敏腕の女性弁護士の周辺にさまざまな異変が起き、次第にこの世ならぬものの存在を疑えなくなっていくというような、オカルト的な味付けになっていく。
何かが体に入り込んで、人がおかしくなってしまう。その人の中から悪いものを追い出す、というようなことは様々な文化で行われてきたに違いない。キリスト教の悪魔払いの作法なども、前キリスト教文化の因習を受け継いでいるかもしれない。「巨石」でも少し書いたが、アイルランドブリトン人の社会では、妖精が子どもや若い女性を連れ去り、代わりに本人になりすました後、死んだようにみせかけるという、取り替え子=チェンジリングという考えがあった。体の弱い子、産後などに情緒不安定になっていた女性などが死ぬと、「本当の子どもは妖精に連れて行かれた」と、説明する「フェアリー・ドクター」がいた。これも一種の「憑依」の形だろう。日本にもそうしたことを仕事にしている人はたくさんいる。大本教出口王仁三郎も、大本開祖出口直に会う前は審神者(さにわ)をしていた。憑き物や祟り神に「お前は誰か」と問いかけ、位の高い天狗の眷族であると詐称する狐狸の類いを説き伏せたりして商売をしつつ出口直に会い、直に憑いた鬼門の神の言葉の「翻訳者」として組織を作っていった。
こうした魔、異界と接触する者は一般的な社会生活とは距離をおいて生きてきたことが多いのではないだろうか。この世ならぬものの声を聞いてしまうメディシン・マンやフェアリー・ドクターは、地域の尊崇を集めつつも、一般人の日常と交わらぬ孤独が強いられていたのではないかと思う。対して、現代日本版の審神者はテレビや雑誌に露出し続け、ブクブクと世俗の中心で太り続けているのだが──。

アイルランドの「取り替え子」の俗信と、ワイルド、イエイツ、小泉八雲などの文学に埋め込まれている「取り替え子」的イメージについては、下楠昌哉さんの『妖精のアイルランド―「取り替え子」(チェンジリング)の文学史』というとても面白い本がある。
My Life In The Bush Of Ghosts 妖精のアイルランド―「取り替え子」(チェンジリング)の文学史 (平凡社新書)