最近まで、ボブ・ディランのアルバムを、ほとんどきちんと聞いたことがなかった。唯一繰り返し聞いたことがあったのは「欲望」で、これはたしか中学3年のときに出たアルバムだ。修学旅行先で数人で入った喫茶店で「One more cup of coffee」が流れていたのを憶えている。若いウェイトレスが不慣れで注文を繰り返し聞き直した。同じ班だった森(仮名)が、下を向いたまま、「さっさとコーヒー三つ持ってくりゃいいンだよ、三つ」と、不機嫌に言い放った。「こいつ、感じ悪いやつだなぁ...」と思ったという些細なことをこの曲を聞くたびに思い出してしまって困る。
ボブ・ディランの曲は本人、カバーも含めていろんな機会で聞いているので、きちんと詩を知らないまま、なんとなく勝手なイメージを持っていることが多い。改めて歌詞を見ると、へえ、こんな詩だったのか、と、発見がある。
私がとても世話になった人が、かつて”Just like a woman=女のように"を話題にして、当時自分が学生だったころ、この歌みたいに「男の女々しさ」について素直に語られるのはとても新鮮だったけど、今は本当に「単に女々しい男」ばっかりになっちゃったね、と言っていた。とても理知的な印象の人だったので、ディランをあまり真面目に聞いたことがなかった私は、そうかなるほどね、と思っていたが、その後歌詞を見てみたらば、これは大人の女っぽく振る舞おうとしている女の子の歌で、全然違うじゃん! と、ガックリきたのだった。まあ、「女のように」っていう和題だと、男のことかなと思うのは無理ないが。こういう思い込みは、日本人特有のような気がして、面白い。
ディランの”Bringing it all back home”に入っているLove minus zero/no limit=ラブ・マイナス・ゼロ”という歌が好きなのだが、ディランのオリジナルを聞いたことがなかったように思い、初めてこのアルバムを買った。まず、このよくわからないタイトルは、実は本当は数式の分数の表示になっていて、分母が8が横倒しになったような、いわゆる無限マーク、分子がlove-0ということらしい。だからといって、なんだかわからないことに変わりないが。
ブリジット・セント・ジョンというイギリスの70年代前半に活動していたシンガーが歌うこの曲がとてもよくて、イントロの旋律を聞くだけでなんとも幸せな気分になる。BBCラジオのフォーク、ロックのDJだったジョン・ピールがつくったダインディライオン・レーベルからデビューしたシンガー・ソング・ライターだ。4枚ほどアルバムを発表して、長らく音楽業界から姿を消していたが、最近になって再評価が高まり、来日もしている。最初私はケヴィン・エアーズのアルバムで競演しているシンガーとして知った。低く、少しこもった丸みのある優しい声で、際立った特徴はないが、とても雰囲気のあるアルバムを残した人だ。
My love, she speaks like silenceというこの曲の歌い出しだけが印象に残る言葉だったので、なんとなく、大人しいけど魅力溢れる女の人という程度の、おおざっぱな印象だった。が、最近になって聞き慣れたレオン・ラッセルのアルバムにもこの曲のカバーが入っていたことに気づいた。曲名をろくに見ないで聞いていたのだが、これがとても同じ曲とは思えないガチャガチャした乗りで、例のファズがかかったような歌いっぷりなので全然わからなかった。これは単に「大人しい女」の歌じゃないよな、と、改めてオリジナルを聞いて、歌詞を読んだ。読んでも一筋縄ではいかない感じだが、歌われているのはどこか超然とした、不思議な印象の人だ。「氷のように、炎のように純粋」で、男たちがバラを手にひっきりなしに会いに来るけれど、ただ「花のように笑っている」人。あれこれ議論したり、言い争ったり、物事を断じたり、人の受け売りで未来について語ったりするするようなことなんて縁がないほど物をわかっている彼女は、とても静かに話すんだ、と。原詩はもっと修辞的なのだが、とても訳すような能力はないので...。
ディランのオリジナルは思ったよりもあっさりとしていて、最後もなんとなく中途半端な具合にフェードアウトしている。ボブ・ディランの熱心なリスナーにとって、どの程度の評価を得ている曲なのかは、よく知らない。アルバムに入っている他の曲にくらべて随分ポップな旋律だ。この曲はジョーン・バエズを始め、多くの女性シンガーにカバーされている。女が歌ってなお、魅力的な女の歌なんだろうか? 歌詞を見ながら、英語を母語にする人たちがどういうイメージで聞いているのか知りたくなった。
ところで、アルバムに入っていた片桐ユズルさんの訳詩があまりに棒訳のような印象だったのにも驚いた。かつて、初めてディランの訳詩を出版物にした人だったのではないか? 大学で英語教授法などを教えてきた人でもある。それにしてはどれも直訳にすぎて面白みに欠け、ちょっとがっかりしたのだった。


サンキュー・フォー(紙ジャケット仕様)