バブルの記憶

なんだかバブル期の日本を自嘲気味に懐かしむような企画がぞろぞろ出てきたが、あまりバブルの恩恵に浴した憶えのない自分にはどうもピンと来ない。バブル前夜に就職したが、バブル期前半は最も過酷な日々で、収入面でもほとんど余裕がなかった。真夏に銭湯が開いている時間になかなか帰宅できず、会社の昼休みに近くの銭湯に駆け込んだりしていたありさまなので、20代だったが、あまり遊んだという記憶がない(転職後は時間に余裕もできたが、収入がさらに減り、人数が二人になったので全くそれどころではなかった)。
私にとってバブル期というと、地上げで町並みが大きく変わっていったという印象がつよい数年だった。勤め先周辺も気がつくとあちこち虫が食ったようにサラ地になっていた。退去を拒んだ老人が住んだままのアパートを重機で壊したというような新聞記事も目にした(映画「ハリーとトント」にも似たようなシーンがあったが)。付き合いがあった業種としては、活版印刷に関わる数多くの町工場が急速に消えていった。業界をよく知るベテランの営業マンによると、最初に無くなっていったのは、組み上げた活字を紙型に取ったあと、鉛を流しこんで版を作る鉛版屋だったようだ。一日中熱く溶けた鉛を扱う、苦労の多い業種だが、大規模な地上げで、ごく小さな工場をこの先真面目に数十年続けても蓄えられないような金額を立ち退き料として提示されて廃業していった業者も多かったという。この先こんな厳しい仕事をする者もいまいと、廃業を決めた人も少なくなかったと聞いた。「3K」には人が来ないと言われていた頃だ。DTPが普及するのはもっと後の話で、活版印刷は技術的な問題から衰退したというより、地価の暴騰と地上げの影響で数多くの町工場が無くなることにより徐々に機能不全をおこしていて、最後にDTPで止めをさされたという感じだったようだ。都内で自社の土地を持っていたある程度以上の規模の印刷会社や製本所にとっては資金繰りがユルユルになっていたので、設備投資が盛んで、高額な新しい機械の導入にともなって仕事が無くなった熟練工が慣れない営業職に転属され、ぎこちなく得意先回りをしていたことも思い出される。バブル以後、多くの印刷会社が機械代の支払いに苦しむことになる。長い付き合いだった馴染みの印刷屋もこのために倒れた。
この時代、なんだかおかしなことになってきたなという、気持ちの悪さだけが記憶に残っている。この時に破壊されたのは町並みだけでなく、労働の価値であり、金融のあり方であり、そもそも生き方のモデルでもあったと思うが、未だにこの国はこの破壊によって空いた虚ろさを克服できていない。顕在化しつつある地方財政の問題も15年前に直結している。だが、もういちどあんな時代が来ないかなというような気分はずっと残っていたように思うし、バブル期を懐かしむような漠然とした気分が、悪夢を食うバクさながらにテレビに映るホリエモンにも餌を与えていた。粉飾ということに限って言えば、彼の会社がやったことなど、カネボウや今問題になっている日興證券などにくらべたら大したことはなく、「どうしてボクだけが」という彼の気持ちもわからなくもない。彼は今食べた夢の分まで責められているのだ。
自分のことをもう少し振り返ると、毎年給料が少しずつ上がるにつれ、住んだアパートも少しずつ広くなっていったので、この次期の景気の良さに乗っていたともいえるかもしれない。今、毎年のベースアップなど当たり前ではないからだ。バブル前夜に就職して半年ほどして、私は自宅に居づらくなって最初に西武新宿線の沼袋で6畳一間のアパート暮らしを始めたが、これはかなり古い建物だった。家賃は2万円代だったか。壁もペコペコで、隣に住む酔っぱらいがつけているテレビの内容が全てわかった(「音が大きいんスけど」と何度か文句を言いに行ったが、一度、いきなりドカドカと上がり込んできて、「おい、そんなにウルサイのかよ、え?」というので、殺気立ったが、「うーん、確かに良く聞こえるネ」と言って去っていった....)。大家は高齢の風変わりな設計士だった。どうもそのアパートも彼が自分で設計し造り足したような、水上家屋のような造りの妙な形の手作り的な建物で、階段を上がって自分の部屋に行く途中、大家の「仕事部屋」の前を通るような構造だった。大家の家は隣にあったのだが、仕事部屋がアパートにくっついていたのだ。この部屋がまた完全に手作り的な雰囲気で、隙間をビニールで塞いである歪んだ大きな窓の前を通ると、かなり遅い時間まで、大家が中でゴソゴソやっているのを目にした。現役で仕事をしているような風体ではなかったので、こんな遅くまで何してるんだろう、家族と一緒にいるのが嫌なのかね、などと思いつつ通り過ぎていたが、窓越しに挨拶すると、「ちょっと、ちょっと」と手招きされ、話相手をさせられたりすることもあった。なるべく断ってはいたが、一、二度くらいは仕方ないかと部屋に入った。どうも彼はクリスチャンだったようだったが、独自の進化論をもっていて、ストーブの上で焼いた肴と酒など振る舞われつつ、その自説を長々と拝聴したことがある。魚類が陸に上がって、陸上生活をする動物が進化して、類人猿から人間が生まれたというような進化論には疑問があり、人間は海の中で生活していた猿のような生き物の子孫じゃないかというのだが、どうしてそういう発想になるのかよくわからず、「はあ、そうですか」と適当に相づちをうちつつ、はやく自分の部屋に帰りたいよう、と思っていたが、最近、猿が海に入って中腰で餌をとっていたのが、二足歩行の起源ではないかという学説があることを知り、あの大家の説もあながち根拠のないものではなかったのかもしれないと、認識を新たにしたのだった。
後に風呂付きのアパートに引っ越したが、バブル絶頂期にかつての住み処を訪れると、ボロかったアパートの外見が「ぱっとサイデリあー」的な不自然にツヤツヤした外壁リフォームを施したものになっていて、大家の仕事部屋がなくなっていた。彼はどうしてるだろうかと気になったが、さらにバブル崩壊数年後に訪れたときには、地所そのものが跡形無くなっていたのだった。