「手書き」であること

ローリングの手書きの本の話を聞いて、「手書き」であることの意味を少し考えてみた。
「手書き」は、高齢者の間で「絵手紙」などが大流行したことなどはあるけれど、全体としてみれば、日常的な営為としては激減しつつある。自分自身のことを考えても、文字につき合うことの多い仕事であるにもかかわらず、字を書くことといえば、ファクスの宛名書き、宅急便の伝票書き、納品するデータに関する用紙や刷り色の銘柄や番号の書き込みくらいだ。時々、海外に住むパソコンを使わない友達に手紙を書くのが最も長い「手書き」文だろうか。
後50年もしたら、歴史資料研究の分野は大変な事態に直面するに違いない。1次資料が残っていない、あるいは鑑定できないという問題だ。
文学史でも作家の日記や書簡、原稿に残る書き直しの跡などは重要な資料なのだろうが、これがブログやメールみたいなものばかりになったら、おそらく残るものは殆どないだろうし、真贋の判断も難しい。親しい人だけに宛てた書簡などを丹念に調べて、作家などの心理状態や作品が生まれた背景などを考察するというようなことは、デジタルデータで可能だろうか。作家の死後記念館などが出来ても、展示する原稿も筆記用具もない。作家が編集者に送ったメールやブログのコピーなどをディスプレイするとか、「代表作●●を書くのに使ったVaio+++***」とかいって、古いパソコンや、手あかのついたキーボードを展示したりしても、その物から作家の個性も何も感じ取ることはできない。つまらない記念館だな、それは。

実家に帰ると中学の頃の友達の手紙なども無造作にレターストックなどに入っている。大掃除などの度に整理しつつも、「これはとっておくか」と思ったようなものがなんとなく残っていて、家を出た20年前から全く手つかずのままだ。高校卒業を前にして、友達が通学の電車で毎朝遭う女の子に告白して撃沈した経緯を自虐的に面白可笑しく綴ったものなど、あまりに傑作なので捨てるにしのびなく、今でももらった当時そのままに状差しに入れてある。焼けているが、全く変わらない。彼がもし大作家にでもなっていたら、それは大変な価値を生みかねない代物で、もしかしたら、我が子々孫々に多大な潤いを与えたかもしれない。いかに本人にとって都合の悪いものであっても、物質として残っているものはいかんともしがたい。これがメールだったらどうだろうか。延々と保存し続けて数十年後に、テキストデータの形で発表したとしても、そんなものの真贋を判断する基準は全くない
そもそもデジタルデータは劣化はしないけれど、意外に保存に適していない。20年前の手紙は何の手当を必要とすることなく、埃を被って残っているが、私宛てに来た5年前のメールはといえば全て消えている。ハードディスクが何度となくクラッシュしているし、システムやアプリケーションを変える際に無くなっていく。中には消えてほしくなかったものも多々あるが、これらは一瞬にして無くなったりするので、ひとつひとつ選別する機会もない。また、そうした事態を想定してあえてメールをテキストデータとして遺しておこうと考えたこともない。こんな感じは私だけではないだろう。

日本の保険会社が法外な値で購入したゴッホのひまわりの絵を巡って真贋論争が続いているようだが、こうしたものの判定にも、手紙や画廊のリストなどの資料が重要になる。果たして、今のような状況で、100年残るデジタルデータがどれだけあるだろうか。