ピクト人とスキタイ

先日書いた近くのガレージセールで、今度は「新撰組屯所」と筆で大書した木の看板と、大げさな額に入った月光仮面肖像画が売られている。いったいどこに行ったら、こんな変なものが手に入るのだろうか。

品切れでアマゾンでも法外な値段がついていた本「アーサー王伝説の起源」(青土社)を、古本屋で購入した。やはり結構高かった。特にアーサー王伝説ファンではないし、関連書もさほど読んでいないのだが、この本はアーサー王伝説のひな形をスキタイなどの、コーカサス地方出身の遊牧騎馬民族の文化に求めるユニークなものなのだ。読み始めたばかりだが、とても面白い。
ローマ時代にブリテン島、現スコットランド国境付近のハドリアヌスの長城近辺にスキタイ系の部族の傭兵が数百人派遣され、これらの人々はブリテン島に残って定住し、以後、現地に様々な文化的影響をもたらしたという。さらに現フランス、特にブルターニュあたりには同じくスキタイ系のアラム人が多く住んでいて、ブルターニュに入植してきたブリトン人と様々に接触があったようだ。アーサー王伝説に登場する人物たちの名前から、聖なる杯というキーアイテム、剣を地面に突き立てる習慣、王が亡くなったとき、特別な力を持っていた彼の剣を海に投げ入れたという話など、符合するものは多い。そもそも長槍や長い剣を持って、騎馬戦を行う中世以降のヨーロッパの「騎士」のスタイルそのものが、スキタイなどの中央アジアから来た戦士たちの様式に影響を受けたものだというのも、面白い話だった。ヨーロッパ文化というのはどうも重層的でよくわからない。
そもそもスキタイ起源論に興味を持ったのは、ブリテン島の巨石を見て回った頃と同時期に訪ね歩いた、ピクト人の石碑に、スキタイ文化の影響があるのでは、と、かねてから言われていたからだ。ピクト人は現スコットランドの北部、東部に住んでいた民族で、ローマ軍が最後まで制圧できなかった人たちだ。「ピクト」というのは、あだ名で、彼らが自分たちをどう呼んでいたのか、どのような暮らしをしていたのか、ほとんどわかっていない。pict=絵という名から、入れ墨をしていたのではないかと言われている。ケルト系の言語を使っていたと考えられているが、アイルランドの人たちとは通訳なくしては会話できなかったという。ローマ軍にとっては手強い戦士集団で、彼らの侵入を防ぐためにハドリアヌスの長城が築かれたのだが、後に、アイルランドから入植してきたスコット族の国に同化してしまい、彼らの言葉も文化も消失してしまう。
彼らはキリスト教を受容する少し前から、数多くの石碑を残したが、これがとてもユニークで、謎めいたシンボルマークが多く彫られており、それらのマークの意味は未だにわかっていない。ケルト系の組紐模様、北欧系の動物装飾など、様々な文化的ルーツをもつ様式が石碑の中に混在しているが、中に独特な様式の動物の描きかたがあり、これがスキタイの黄金の装飾品などに見られる様式と似ている。このスタイルはケルト的装飾美術の白眉として名高い「ケルズの書」の装飾ページなどにもみられるもので、これをして、「ケルズの書」はピクト人が作ったのではないかと言う人もいるくらいだ。
面白いのは、アイルランドから来たスコット族の言い伝えに、ピクト人はそもそもスキタイの地からやってきたという伝説があることだ。男だけがスキタイの地からアイルランドにやって来て、土地を求めたが、アイルランド人はこれを断り、彼らに女性を与えて、スコットランドに向かわせたのが、ピクト人のルーツだという伝説だ。これはアイルランドに入植して、スコットランドを制圧したスコット族が、自らの政治的覇権を正当化せんとした作り話だというのが、従来の見方だが、なぜ、「スキタイ」なのか、興味深い。
そもそもローマ時代のスキタイの戦士たちは、主にピクト人との戦いのためにブリテン島に派遣されたので、ピクト人がスキタイ人ということは考えられないのだが、コーカサスブリテン島という、遠くヨーロッパの外れ同士を結びつけるようなサインが様々に残っているということがとても面白い。