「幼年期の終わり」/Pauliina Lerche

アーサー・C・クラークが亡くなって、久しぶりに「2001年宇宙の旅」でも見ようかという気になった。映画で飛んでいたスペース・シャトルは現実のものとなって久しく、既に「古いタイプ」の宇宙船になっているけれど、映画で描かれた「近未来」は、未だに「近未来」のままだ。
彼の小説はこの映画の小説版と、「幼年期の終わり」とジュヴナイルの「イルカの島」くらいしか読んだことがないのだが。
SFをあまり多く読んでいないが、「幼年期の終わり」や「2001年」の、地球外の知性に導かれて人間が新たな精神的ステージに向かうというモチーフは、その後、多くのサブカルチャー作品やカルトの(陳腐化されたものではあるが)教義に翻案されたように思う。昨今何かと喧しい2012年のマヤの長期暦の終わりにおける「人間の高次元への上昇」とやらも、似たようなものかなと思う。
全く乱暴な感想ではあるが、昔北一輝の『国体論及び純正社会主義』を読んだときもにも、含まれている特異な「進化論」に同じような傾向を感じたのだった。彼にとって、10代の終わりに引き裂かれた恋愛と自らの肉体に対する嫌悪が産んだ夢想、忌まわしき肉体の束縛を離れて神へと進化するというモチーフは、どこか「2001年」、「幼年期の終わり」的な.... いや、この人の方がずっとずっと先なのか。
「吾人々類が類人猿として消滅せる如く、更に人類として消滅せる後に於ては、吾人々類より分れて進化せる人類の子孫なる神の化石学者によりて「類神人」として発掘せらるべき半神半獣の或者なり。」
基本的に「エヴァンゲリオン」も、同一路線上にあるのかなという感じがする。
北の時代には進化論というのは、多くの曲解も含めてかなり奇天烈なものだったに違いないが、未だに科学なのか精神論なのかさっぱりわからない面がある。

北一輝思想集成―国体論及び純正社会主義 日本改造法案大綱 対外論策篇ほか

「2001年」に登場する石版は、巨石の国イギリスならではというイメージだ。アーサー・C・クラークはサマセット州出身らしいので、イングランド南西部に展開する巨石遺構は馴染み深かったのではないかと思う。5000年という時を経て立ち続ける巨石は、かの地に住んだ人間の意志の結晶であり、文化の萌芽を記すモニュメントでもある。彼が子どもの頃に、荒れ地に立つモノリスの前に立っていたかもしれないと、想像してみる。「2001年」で、月面で発掘された石版を前にした人間たちのように。


Josanさんに教えてもらったフィンランドのトラッド系アーティストPauliina LercheのCDを聴いた。これがもう、実に良かった。ヴァルティナの初期(ハイスクールの頃の)に在籍していた人らしいが、私のような初期ヴァルティナ・ファンにはたまらなく魅力的な音楽で、この開放感溢れる歌のリズム、アレンジの自在さは今のヴァルティナには残念ながら希薄になってしまったものだと思う。昨年来日していたのか...。ヴァルティナもそうだが、何かと情報に疎く、いつも聴き始めたときには来日の後で、残念だ。明日、大のヴァルティナファンである娘にも聴かせてみよう。

MALANJA

MALANJA