偽札

中学生の女の子が偽札で逮捕とは。しかも、同時に二人も。一人は知らなかったと言っているようだが。
スキャナやプリンタが自宅に入るようになって、この手の緩い偽札事件が時々ある。遊び半分で作ってみたらよくできていたので、つい試したくなって..というような話が何件かあった。今回の事件も父親が作ったものらしいが、似たような感覚だろう。

印刷が手元で出来るというのが当たり前になりつつあるが、これはとても革新的なことだ。
ワープロが登場したときも、ちゃんとした文字が自分で組めるというのは大変な出来事だった。大学生時代に友達が関わっていた学生新聞はお金が無くて、年に一回くらいしか新聞を出せなかったのだが、卒業も近くなった頃ワープロが入り、安いコピーが出回り始めると、それまでの値段は何だったのかというくらい簡単に発行できるようになった。もっとも、そこに新聞らしい体裁はなかったが。

出版社に就職して、しばらくは活版印刷が主だったが、確か一文字組んで2円近くしたように思う。今は1円くらいだろうか。写植の文字はもっと高かった。1ページ大の広告などを組み打ちしたら万単位の請求があったから、計算を間違ったり、文字の修正が入ったりすると大変だった。今、文字を組むことにそれほどの緊張感はない。

一色の文字ですら、そうだったのだ。カラーの印刷が手元で出来るということは、20年前には想像できないことだった。
その、20年前、短い会社員時代に、東京で出版社と印刷所が一緒になって起こした偽札事件があった。小さな出版社と印刷所で、どちらも、私が勤めていた出版社の出入りの印刷所の営業マンの知り合いだった。偽札作りが発覚したのは、使用したからではなく、ゴミ袋に入れて出していたのを見咎められたという、どうしようもなくいい加減な話だったが。
彼らが作った偽札の完成度がどの程度のものだったのか、どちらが話をもちかけたのか、使うつもりがあったのか、詳しいことは知らないが、どちらの会社も比較的「まじめに」仕事をしていた会社だったようで、両者と付き合いのあった営業マンが、とても信じられないと語っていたのを思い出す。
紙切れ一枚に一定の交換価値があるというのは、考えてみればとても頼りない約束事なのだ。
日本ではあまり目にすることはないが、海外で高額紙幣など使うと、目の前で光にかざしたり、指先でもんでみたり、いろいろとされることがある。
それは単なる紙切れであるかもしれない、という懸念が日常的なものとしてあること、「約束」の頼りなさが実感される。