チュニジア旅行-6

アルジェリア国境からそう遠くない町タメルザは60年代、大洪水に呑まれて破壊されている。今も川岸に放棄された村の廃墟が残されている。町の骨組みだけが静かに風化しているが、モスクが二つ、まるで鎮魂の礼拝堂のように白壁も修復され、残っているので、どれくらい犠牲者がいたのかと慮ってみたが、洪水当時2歳だったという男に話を聞いた限りでは、幸い町の人は皆、難を逃れたということだった。
対岸の高台から望む町の廃墟は、どこか発掘された古代の遺跡のようにも見える。川は夏は干上がっていて、町をのみこんだという奔流を想像するのは難しい。干上がった川底には綺麗な石英の小石や化石が散乱していて、日没前のひととき、石拾いをした。




タメルザのオアシスに行くと、土産物屋がトゲトゲしたごついトカゲ、サラマンダーを娘にくっつける。見た目は禍々しいトカゲだが、おとなしく、二匹抱き合わせにくっつけると、じっと抱き合ったまま動かない。これを、「こいつの名前はビル・クリントン、こっちはモニカ・ルインスキー」と言いながら抱き合わせるというのが、未だに定番になっているのがおかしい。子どもがキャーキャー言うのを期待して、腕にくっつけたりするのだが、我が娘は蛇を首に巻かれても、サソリをくっつけられても「面白い」とか言って平然としているので、相手としては期待外れなのだ。家で蛇を飼いたいとか言うことがないように切に願う。

タメルザを出て、広大な塩湖Chott El Jenridを横切る。塩湖は夏場は水も少ないのだが、そこここに塩の山があり、水底には塩の結晶ができている。道路の凍結防止用にカナダに大量に輸出しているということだった。道ばたの露店で、サハラのバラを塩湖に沈めて、塩の結晶をつけたものが売られていた。ザラメをまぶした焼き菓子のようで、キラキラ光って綺麗だ。なかなかいいアイデアだなと感心する。


大塩湖を横切る道は数年前まで舗装されていなかったという。オフロードを砂を巻き上げながら走るのは結構ハードだったようで、途中にある店Cafe Bir Soltaneは補給と休憩の貴重な場所で、ここを訪れた人の名刺や写真が壁にびっしりと貼られている。日本人のものもいくつかある。馴染み深い西武線の定期が貼ってあった。店の背後、随分離れたところにぽつんとトイレが立っていて、この光景がなんとも不思議だ。なんとなく、ソ連時代のおかしなSF映画「不思議惑星キンザザ」を思い出した。


砂漠の町クサール・ギレンに着き、部屋がそれぞれ独立したテント張りになっている有名なホテルに泊まった。テントといっても大きなベッドがあり、エアコンも入っている。

ホテルの周辺は360度砂丘が連なっているが、夕暮れ時、ラクダに乗って砂漠を2時間歩いた。馬に乗ったことがなかった私はラクダの背の高さが新鮮だった。娘は小さいからてっきり私か嫁と一緒に乗るのかと思っていたが、土産物屋で買ったターバンを巻いて、すっかりその気になっている娘に、ラクダ・ツアーのボスが「大丈夫。この綱をしっかり握って、絶対に離さないように」と、成長しきっていない小ぶりのラクダに乗せた。
トズール周辺の砂漠と、砂の色も質も違う。出発前に、砂漠ではデジタルカメラが壊れやすいと聞かされていたので、自分で防護袋を作ってきたのだが、確かに、砂粒というより、パウダーというのがふさわしいほど、粒子が細かい。デジタル機器はダストに弱いので、こういう場所では完全に機械式のカメラの方がいいのだろう。ブローニー版のマミヤ6を持って行っていたので、使おうかとも思ったが、万一のために部屋に置いていった。幸い、デジカメは壊れなかったが、2時間の道行きの帰りに突然風が激しくなり、目を開けているのもつらいほどだった。ターバンがいかに有用か実感し、ラクダのまつげがとても長いことにも納得がいった。カメラはレンズの先以外完全に密封していたが、カメラバッグが中まで砂まみれで、何とも予想が甘かったと思い知った。砂をとばすためのブロワーが砂まみれで、吹くと砂粒が舞い散るのだ。洗ってもなかなかとれない。



我々に付き添ってくれたのは、まだ10代とみえる顔立ちも端正な男の子で、「僕は日本語もいくつか知ってる」と。砂に娘の名前をアラビア語で書いてくれた。
ラクダは大人しいのだが、気がつけば、休憩中に休ませていた我々の3頭のラクダが、なんとなく、他のグループのラクダの列につられて遠くまで歩いて行ってしまい、彼は「おい、待て、違うぞ。止まれー」と、砂漠を追いかけていく。戻れ戻れと指示するも、一度歩き出してしまった3頭はなかなか納得しないようで、返すのにとても苦労していた。

砂漠に沈む夕日を見て、翌朝は、一人で砂漠の日の出を拝みに行った。地平線から昇る太陽を見るのは初めてだったように思う。