MRI、どんどん橋

膝のMRIを撮った。筋が切れているとか、半月板が大きく損傷しているとか、大事に至っていないか調べるためだ。
結果、特に心配するようなことは無かったが、剥離骨折もしていなかったことが判明。レントゲンには破片のようなものが写っていて、「これは明らかに剥離骨折ですね」とか言われていたのに。
「剥離」とはいえ、生まれて初めて骨折したと、みんなに自慢していたのに....。今さら折れてなかったと言われても。


まだ、まともに歩けないのだけれど、週末家でじっとしているのも退屈で仕方ない。ちょうど、かつて幽霊騒ぎがあった場所を探査する本の仕事をしているので、その「現場」の一つ、玉川上水の、三鷹市と杉並区の境付近にかかる「どんどん橋」という古い橋の写真を撮りに行った。臆病だけど幽霊話好きの娘といっしょに。

「どんどん橋」は古いレンガ造りの橋で、今残っているものは大正時代に造られたものらしい。中央に何かの動物のレリーフがあるが、よくわからなかった。写真を拡大してもわからない。上水の両岸はうっそうとしていて、柵があるので、全体が見えにくいのだが、なかなか雰囲気のある橋だ。
「どんどん」というのは、かつて下を流れる川の音が反響して「どんどん」と聞こえたことからつけられた名だという。今、玉川上水はチョロチョロ程度の流れだが、太宰が心中した頃にはかなり水量が多く、毎年20とか30人もの自殺者が出ていたというから驚く。
どんどん橋は幽霊の名所というわけではないが、著者の友人の母親が二度、あやかしのような幼女の姿を見たという。
「幼女」といえば...ということで、話は1959年、三姉妹が入水自殺した悲惨な事件にうつる。発見されたのはどんどん橋とは少し離れた場所だ。
長女が14歳、次女は11歳、末娘は7歳だった。
遺書には、両親の不仲と乱れた生活に関して切々と綴られていたという。父親が結核で失業し、生活が困窮する中、母親が他の男とできてしまって、ほとんど家庭を放棄していたらしい。
「お母さんに他の人と別れてくれるように頼みましたが、余計なことをいうな、お前のような子は死んでもかまわないといわれました。そうなればお父さんにはかわいそうですが、私たちにはもう死を選ぶしかありません」「私たちは死んでいきますからお父さんお母さん仲良くしてください」とあったという。
哀れな子どもが三人一度に心中ということにくわえ、母親への抗議の死と受け取れる遺書などから、当時大いに話題になったようだ。井の頭公園の中に慰霊の柱も立てられたのだという。

おそらく14歳の長女が計画したことに違いないが、遺書には次女の署名もあったらしい。
実は姉妹は四人姉妹で、一緒に出かけた三女だけは生きて帰った。
姉妹と玉川上水の近くではぐれた、という三女の話をもとに捜索され、遺体が見つかったのだというが、本当はこの娘ははぐれたのではなく、他の三人と遺書を確実に見つけてもらうための、「報告役」だったのではないかというのが著者の見方だ。