出版社に入社して以来、30年近くお世話になっている製版・組版会社の会長さん、大番頭さんと事務所の隣の新潟料理屋で会食。30年近くとは言っても、直接お世話になったのは約4年、以後は出版社を通してだが、最も長くお付き合いのある業者さんだ。
今はDTPと印刷の受注がメインだが、かつては活版印刷用の亜鉛凸版の会社だった。それが写真製版、手動写植、電算写植、さらにDTPとCTP印刷の受注と、確実に時代の流れに沿いつつ体制を変えてきた。付き合いのあった写植屋さんや製版屋さんが次々と廃業していったことを考えると、ここ四半世紀に起きた印刷業界の変化の波を大変なかじ取りで乗り切っていったことがわかる。
当時『朝日ジャーナル』の1ページ広告の写植の直しなど、時間のない無理なお願いをきいてくださった社長(現会長)は、二代目で、てっきり所謂「御曹司」かと思っていたが、製版職人であった初代の父親の「伸るか反るか」の独立に合わせて中学卒業後すぐに現場に入った、正にたたき上げの職人でもあったことを初めて知った。さらに腕利きの営業マンという印象だった大番頭さんも、面相筆で表罫を引いていた熟練の職人でもあったことを知り、会社のかじ取りは技術を知悉していたが故の応用力だったに違いないと納得した。

私は最初出版社の編集部に入社したのだが、入社数日後にカバーの版下をひくことになった。トンボの入れ方は知らなかったが、学生時代に友達と小冊子を作ったことがあり、版下、網点スクリーンにかけた写真の紙焼き、写植、などがどんなものかは知っていた。道具はロットリング・ペンで、仕事では烏口を使ったことはなかった。
ロットリングは筆圧と角度さえそれなりにすれば、誰でも一定の太さの線がひけ、大して熟練の必要もないものだった。烏口ましてや筆で細く一定の線を引く技術を獲得するに至る訓練を考えると実にお手軽な道具だ。ただし、値段が高かった。始末が雑だとすぐにペン先が詰まる、落とすとすぐにオシャカになるということで、おそらく私の一世代上の人たちからすれば、どうして線を引くのにそんなに金がかかるのか、という思いもあったに違いない。
その後、DTPの時代になり、均一な線を引くことに何の熟練も必要なくなった。そのかわり数十万という、さらに高額な費用が必要になった。ここで大変な投資をし、結果的に経営が難しくなった事業所も多かったに違いない。高い機械に投資し、しばらくは機械が食わせてくれるという「機械神話」ともいえる経営のモデルがあっというまにおかしくなった。会長さんもこの頃高価な機械を購入して失敗したという話をしてくれた。

技術の熟練・蓄積があまり必要なくなっていけば、付加価値もまた生みにくくなっていく。二人の話は、「技術の均質化、陳腐化」による価格競争という、印刷業界に限らない、現在様々な分野に共通した問題にいきつく。本当は一見均質にみえる技術も、扱い方に大きな違いがあるのだが、今、数値化できないものはなかなか評価の対象になりにくい。

二人と話をしながら、一冊の本を校了する際、亜鉛凸版の裏にひとつひとつマジックで頁数を書いて袋にぎっしり詰め込んで渡していた頃のことを思い出した。小見出しの頭につける小さな装飾の凸版が一つ足らず、大慌てしたこともあった。それに比べてネットでデータを送って完了という今のやり方のこの軽さはなんだろう。
かつて製版所でなければできなかったことが実に手軽にできるようになり、今は自分で撮影した写真を自分で分解し、補正し、30年前には一ヶ所数万円という大変な費用のかかった写真のデジタル的修正も、件の社長さんに夜中に謝りつつ頼んでいた文字の修正も簡単に終えられ、印刷にかける前の全ての工程を一人で済ませることもできる。だが、おそらく私は今、自分の手では罫線一本まともに引けない。引っ越しの際にたくさん出てきたロットリングは当然全て使い物にならないし、ここ数年、定規もまともに使っていない、この30年はなけなしの技術が自分の手元からどんどん離れていった30年でもあったのではないかと、二人と別れた後にしみじみ思った。