ペルー・ボリビア旅行八日目

チチカカ湖に来てからちょっとブログを書く余裕が無く、たまってしまった。さらに日付を修正していたら、おかしなことになってしまい、コメントや星をつけたくださった方、消えてしまいました。本当にすみません。

今日はこの旅のメインの目的のひとつであったボリビアのティワナク遺跡に行く日だ。朝7時出発のツアーだが、地図や遺跡の見取り図などを事前に見て、遺跡の象徴である太陽の門が東向きであることから、昼近くには完全に日陰になるにちがいないとふみ、1時間出発を早めてもらった。追加の料金も払って。なのに....来ないんだな、これが。
随分経ってようやく来たと思ったらガイドの調子が悪いとかで、急遽新しいガイドを手配したので、そのガイドをピックアップしなくてはならないと言う。なんだか出発時から雲行きが怪しかった。
新しいガイド・フレディ(仮)は浮き島のウロス島出身だという28歳の男で、なかなかの好青年だった。ウロス島出身だというので、今は陸に住んでるんだろうと思いきや、毎日手漕ぎボートで出勤しているのだそうだ。今日は急に連絡があったので、いつもなら30分近くかかるところを猛然と漕いで15分で来たと言っていた。
フレディは車中でいろいろとウロス島の事情を話してくれたが、昨日私が書いた、島が二つというのは全くの間違いで(ガイドがここには、と言ったのが全体の話かと思ったのだ)、島は全部で80以上、人口は2000人以上ということだった。彼らの祖先は、元は浮き島ではなく、大きな小屋付きのトトラ船で船上生活を送っていたらしい。最近は島を離れる若者も多く、人口は減っているという。
驚いたのは、あれだけ頻繁に観光船が上陸して、島をあげて島の説明をしたり歌をうたってみせたりトトラ船に載せたりしても、島民は旅行会社から全く現金を受け取っていないのだそうだ。土産物と宿泊者がいる場合はその宿代だけが現金収入で、他は一銭ももらってないという。それはちょっと不公平なんじゃないのと言うと、本当にそう思うけど、旅行会社は「金は無い」の一点張りだそうだ。これから旅行に行かれる人で、ウロス島が気に入った人は島で何か買うのと町で何か買うのとでは大違いだということを知っておいた方がいいかもしれない。同じような刺繍や織物は町の方が安く売っているのだが、これが売れても彼らにはお金は入らない。

また、強風などで島の錨が切れ、漂流してしまうことがあり、これを元に戻すのがいかに大変かについても話してくれた。錨が深みに沈んでいくと引き込まれるのでロープを切らねばならないこともあるという。数ヶ月前も長い距離漂流してしまい、元に戻すためのロープの購入だけでも大変な負担だったと言っていた。そういうときも、観光代理店から誰か助けに来るわけでもない。チチカカ湖からウロス島の観光が無くなったら、観光業者は大打撃なのだが。
彼はまた日本の学生で(大学院生?)ウロス島の生活を研究テーマにした男性についても話してくれた。彼が日本の歌を教えてくれたといって「ドングリころころ」や「大きな栗の木の下で」を歌ってみせた。この男性は数ヶ月島で生活したようだが、島の修復などにも参加して(胸まで水に浸かって作業してくれたと言っていた)、援助もしたということで、今でも彼らにとって大切な友人なのだと。
アルベルト・フジモリも島に一人で一泊したらしい。島にソーラー・パネルを設置し、無料の学校などを建てたのはフジモリだったようで、彼は島民には絶大な人気がある。今は牢屋に入っているが。電気が入っているのを見てがっかりするような観光客も多いが、そんな勝手な話はない。お前らだけずっと何百年前と同じ生活をしてろと言うに等しい。電気が入ったことで、頻繁に起きていた火事がなくなり(なんせ、全部葦でできているから、ちょっと子供がロウソクを倒しただけであっという間に燃えてしまう)、勉強もできるようになり、自分のように町で仕事が出来る者がでてきたのだと。彼が村で力を持つような歳になったら町の観光業者と渡り合って、島に入る代金を徴収するようになるかもしれない。

ティワナクに入るには一度ペルーを出て、ボリビアに入国しなくてはならない。以前は日帰りであれば入国手続きを省いてくれたらしいが、最近は厳しくなっているようで、フレディの認識が古かったため、ボリビアの入国手続きにえらく時間がかかってしまった。結局、遺跡に着いたのは昼も近くなっていて、やはり危惧した通り、太陽は裏面を照らし始めていたのだった。しかも、ちょっと撮影していたら、雨が降ってきて、さらに霰まで降ってきた。なんちゅう不運か。ちゃんと時間通り迎えに来て、国境で手続きがすんなり言っていたら、比較的晴れた状態でほとんど撮影できたのだが。頭にきたので観光業者に電話し、金を少し返してもらうことにした。


川を隔ててペルーとボリビアに別れている。


ティワナクはいわゆるプレ・インカの文明だ。起源は古く紀元前に遡ると見られていて、最盛期は8−11世紀頃と考えられている。以前は南米最古の文明とも言われていたが、そうでもないようだ。チチカカ湖周辺を中心として、南は現在のチリ北部まで勢力圏においていた。
非常に高度な技術をもって建造物を建て、彫刻などを残したが、建造物はスペインに破壊され、その後町の建造にともなって石材として再利用するためにさらに壊され、ほとんど原形を止めていない。それでも見どころは少なくない。



「太陽の門」は創造神であるビラコチャ神などをあしらったレリーフが大変美しい。子供の頃この門の写真を見たときは、荒涼とした土地に巨大な門だけがぽつんとあり、まるで異界への入り口ででもあるかのような、シュールな印象を抱いたものだが、実は元はどのように使われていたものかもわかっていない。門として独立したものではなく、大きな神殿などの入り口だったもので、場所も今ある場所はオリジナルの場所ではない。さらに二つに大きく割られた状態で発見されているので、おそらく遺跡を破壊した者が、門の周りの石材は持ち去り、門は扱いにくいので放置したのではないだろうか。大きさも、想像したものよりもずっと小さい。
太陽の門は表面のレリーフの状態が悪くないが、いずれは屋根がつくか、博物館の中に移設されるのではないかとおもう。

ティワナクでもう一つとてもユニークなのは半地下の神殿で、ほぞ付きの顔の彫刻が差し込んであり、顔が壁面からせり出すような形になっている。チャビン・デ・ワンタルというリマの少し北の山岳地帯に栄えたティワナクよりも数百年古い遺跡にも同じような様式のものがある。
この彫刻が神殿を飾るにしては技術的な巧拙の差が大きく、遺跡内の大きな石像と同じ様式のものもあれば、なんだか小学生が美術の時間に石膏で作ったかのような稚拙なものもある。顔つきもいろいろだ。この統一感の無さには諸説あるようだ。様々な民族があつまってそれぞれに自分たちの顔を彫ったのでばらつきがあるだとか、いろいろ言われているが、わからない。




カラササヤと呼ばれている巨石を使った神殿はなかなかの威容だが、これもほとんど壊れていたので、修復はかなり恣意的なところがあるようだ。形も間違っているという指摘がある。太陽の門はカラササヤの壁面の一部だったとか、中にもうひとつ建物があり、その門だったとか、確証は無いがいろいろ言われている。インカ同様、水道・排水のシステムがしっかりと出来ている。


最も大きな建造物はピラミッドだが、ほとんど原形を止めていない。上部には大きな穴があり、ここに水が溜められていたようだが、乾期の農耕のための貯水だったとか、水面に星を写して観察したとか言う人もいるようだが、そんなまだるっこしいことをするとはあまり思えない。ティワナクの横には水路のついた畑があった。そこまで水をひけるようになっていたらしい。そもそも、ティワナクは12世紀頃に滅びるのだが、それは干ばつが非常に長く続いたため放棄せざるをえなくなったのだという説が有力なものとしてある。
インカ帝国はティワナクの支配層がクスコに移動して作ったものであるという説もあり、インカ発祥の地がティティカカ湖であると伝説でとかれていることを考えるとあながち見当違いともいえないかもしれない。

ティワナクで、もうひとつの大きなサイトはプマ・プンク(ピューマ・プンク)と呼ばれる廃虚だ。大きな建物の廃虚で、石材がゴロゴロ転がっており、ほとんどの石材は奪われてしまっているのだが、石の加工技術が非常に高かったことが見てとれる。直径5−6ミリほどの円形の細い穴がまっすぐに深く開いていたり、ニッチの角も非常に正確に直角になっている。石材の表面はとても平滑に研磨されている。
これをして、デニケンなどのいわゆる「古代宇宙飛行士説」を唱える人たちは、プマ・プンクは当時の人には絶対に作れない(=宇宙人が作った)というのだが、クスコにある黄金神殿跡「コリカンチャ」に置いてある石材の様子など見れば、そんなことを言う必然性がないことはよくわかる(人間が教えてもらった。とか言うのだが)。とても良く似ている。むしろ、ティワナクとインカが技術的に多くの共通点を持っているということに注目すべきなのではないかと思う。インカがティワナク起源だとしたら不思議はないのだが、そうでないとしても、石材加工・建築の職能集団などがいて神殿建築を指導していた可能性はあるのではないか。
プマ・プンクには門の形をしたものが複数残っていて、これが太陽の門ととてもよく似ている(レリーフはないが)ので、太陽の門はもともとプマ・プンクにあったものではないかという見方もあるらしい。





ひととおり見学して近くのレストランに入る。外で何か音楽と喧騒が近づいてきたと思ったら、地元の高校の卒業パーティーなのだそうだ。村を挙げてお祝いをしているかんじだ。
ボリビア領に入ると基本的にペルーのガイドは仕事できないので、ボリビアのガイドと運転手に代わってもらっていた。ガイドのマヌエル(仮)はティワナク村出身で、彼の妹も卒業生だったので、期せずして彼の親、祖父母などに挨拶することになった。彼らの記念写真を撮り、私も何故か一緒に撮ることになった。「俺もこの仕事が終わったらお祝いに参加するんだ」と彼。遺跡よりもこのお祭りの方が印象的だった。

ティワナク見学は複雑な心境のうちに終了。再びペルーに戻る。やっぱりボリビアに一泊するかティワナク村に一泊して、光の具合のいいときにゆっくり時間をかけて写真をとるように予定を組むべきだった。村の教会の入り口にもティワナク遺跡から移設した石像があるのだが、「見てる時間ありません」と、断られてしまった。博物館もスルーしようとしていたので、それは勘弁してと頼み、ざっと見る。というか、展示品は見事な大きな石像以外ほぼ何も無い。石像はライティングが雰囲気の出しすぎで暗く、ディテールがよく見えなかった。色はついてないのだから、そんなに暗くしなくても。

帰りの道すがら、アラム・ムルという面白い遺跡に寄る。堆積岩が面白い形で侵食されて、屏風状になっている場所があり、そのひとつに大きな扉のような形が彫られている。ここは昔から「魔法の扉」の場所と呼ばれていたらしく、別の世界につながっているとか、失われたインカの黄金のディスクに繋がっているとか、「古代宇宙飛行士説」の方々にとってはここに宇宙人の時空を超える装置があったのを、彼らが去った後で人間がこれを模してドアを彫ったのだとか、いろいろ言われているが、もちろんなんだか全くわかっていない。
「扉」の下方にはT字型のくぼみがあり、さらにくぼみの中ほどに小さな丸いくぼみがある。フレディは、頭を岩に押し付けて、意識を集中させて丸いくぼみをじっと見ると、何か不思議なものが見えることがある、見たことない町が見えたと言う人もいるんだ、と。やってみたけど、ビールを飲んだ後だったし、フレディの携帯が頻繁に鳴るし、ぜんぜん清らかな気持ちで集中できなかった。この岩場には小さな穴が沢山開いている。プレ・インカの墓穴だとう。それらは今、朱鷺の一種の鳥の巣になっていた。


遺跡には子供が二人いて、10歳くらいの男の子が自分で瓦のかけらのようなものに釘かなにかで遺跡の絵と名前を彫ったへたくそな土産ものと近くから拾ってきたという石を売っていた。こんな下手くそなものを売ろうという意気や良し、とは思ったがいかんせん下手すぎてどうにもならない。彼が持っていた結晶はなかなか綺麗だったので、60円で買う。するととなりにいた6歳くらいの女の子が絶望的な顔になったので、仕方なくその子が持っていたどうということのない石英片を30円で買う。まんまとしてやられている。写真も撮らせてと言うと、ものすごく緊張して写るのだった。

さらに、予定にはなかったが、フレディの計らいで、シルエタニと同じようなチュルバのある所に連れていってもらった。ここのものは四角い。プレ・インカでも時代によって様式が違うのだ。チュルパの入り口は基本的に東を向いている。太陽神に正対している。
最後にインカ・ウヨという面白い遺跡に。これはいわゆるマラ石の神殿のような感じだ。今でも子供が欲しい人がお供え物などしに来るようだ。真ん中にひときわデカイものがある。
これはそういうのじゃなくて、家畜を繋ぐ場所だったという学者がいるらしいのだが、このデカイやつを見てあえてそう言う感覚がよくわからん。


これでティワナク行きのツアーは終わったが、ガイドのフレディに頼みがあった。タキーレ島の織物を島で買おうと思ったのだが、時間があまりなく、市内でも買えるだろうと思っていたのだが、全く売っていない。島でしか買えないものだったのだ。港の近くにタキーレ島の人が住んでいる建物があるから、話をしてみようかとフレディが言うので、頼んだ。男の胴巻き(髪の毛をすき込んだやつじゃなく)とコカの葉を入れるバッグを買った。とてもよく出来ている。こうした手仕事は一部のものを除いていずれ消えていく可能性が高いと私は思う。
さらにフレディの奥さんに会ってみることにした。奥さんは呼べばやはりボートを漕いで来るというので、遭うことにした。
陸に彼らの拠点になっている建物がある。陸の学校に通っている子供を親がピックアップするまで置いておく、いわゆる学童のような役割もしている。ウロス島の人は陸に上がるときには伝統的な服ではなく、陸の人と同じような服装をすることが多いのだそうだ。島の人間はバカにされたり差別されるからだとフレディ。
フレディの奥さんは「ドングリころころ」「ぶんぶんぶんハチが飛ぶ」「大きな栗の木の下で」を近所の女性と二人で歌ってくれた。歌の意味は教わっていないらしく、ドングリころころの歌詞の意味を教えてあげると皆良く笑った。
ウロス島の織物は100%手作りではなく、どこか量産されたものに島の人が手を入れたものだという。そんな感じはある。けれども記念にひとつ買って帰ることにした。奥さんは別れ際に日本語で「またこんどね」と言っていた。