ストーンヘンジ、ここ数年にわかったこと

『巨石 イギリス・アイルランドの古代を歩く』(早川書房)を出してから今年で早8年。4000年から5000年も前の遺跡の話なので、8年という時間など全く問題にならないと思いきや、ここ数年、ストーンヘンジに関するかつてない規模の調査が行われ、これまでの定説を覆す様々な発見があった。今考えるとなんともタイミングの悪い時に出してしまったと言えなくもない。明らかに修正が必要な事柄があり、ここにおおまかな概要を書いてみたい。

ストーンヘンジは長らく人気の観光地であったため、20年代、50年代に発掘調査が行われてから、サイトを長く閉鎖するような本格的な考古学的調査が行われてこなかった。70年代から放射性炭素による年代測定が盛んになり、遺物による年代測定が行われ、この遺跡が紀元前3000年から紀元前2000年にかけて姿形を変えながら建造・使用されたもので、その歴史は四つのフェーズに分けられるというのが定説になっていた。つまり、紀元前3000年にヘンジとよばれる円形の堀と土手による囲い地がつくられ、その100年ほど後、囲い地の中に木の柱が多く立てられ、紀元前2500年頃にウェールズからブルーストーンと呼ばれる玄武岩がはるばる運ばれて二重の馬蹄形に並べられ、紀元前2300年頃に、現在の姿、つまり巨大なサーセン石による石組みが作られた、と、考えられていた。
こうした遺跡の変遷とその年代、さらに遺跡の機能に関しても、これまでの解釈に大きな変更を迫る発見が様々にあった。
ほとんどがシェフィールド大学のマイク・パーカー・ピアソンMike Parker Pearsonを中心とするストーンヘンジ・リバーサイド・プロジェクトによる、ストーンヘンジの北東にある巨大なヘンジ、ドゥリントン・ウォールとその周辺、ストーンヘンジの入り口に続くアヴェニュー、さらにストーンヘンジ内部の発掘調査による成果だ。

主な発見を箇条書きにすると以下のようになる。

ストーンヘンジは紀元前3000年頃、円形の囲い地=ヘンジとして作られ、石が運び込まれるのはその500年後の紀元前2500年頃と考えられていた。ヘンジが作られたとき、オーブリー・ホールと呼ばれる穴が内側の縁沿いに56個開けられたことがわかったが、この穴が何の為に掘られたかについては定説がなかった。

それが、今回の発掘によってヘンジが作られたのと同時期に、ウェールズから運ばれたブルーストーンが、オーブリー・ホールに立てられ、ストーンヘンジは最初からストーンサークルであったことがわかった。さらに、オーブリー・ホールは火葬した遺骨を埋葬するための墓穴であり、この時期のブルーストーンは一種の墓標であったことがわかった。ストーンヘンジの機能については諸説あったが、埋葬のための施設ではないという見方が、近年有力だった。これが少なくとも最初の200年ほどは間違いなく埋葬地であったことが判明した。


●さらにサーセン石が運び込まれた年代もこれまでの定説よりも200年古い、紀元前2500年ころであったことがわかった。

ストーンヘンジの北東にある、同時代の遺跡であるドゥリントン・ウォールとその周辺を発掘したところ、この周辺にはかつて1000戸ほどの住居があり、毎年冬至の日の前に大規模な祝宴ともいえる行事が行われていたことがわかった。付近からは食用に供された大量の牛やブタの骨が出土し、それらを調べたところ、春に生まれたものを、冬至の頃に屠畜したものだと判明。しかも、ブリテン島各地から持ち寄られたものだったということがわかった。これにより、従来ストーンヘンジの入り口と中心を結ぶラインが夏至の日の出の角度に合っていることから、夏至の日に合わせて祭事を行うための施設というイメージが定着していたが、同じラインの反対の端は冬至の日の日没方向であり、むしろ冬至の日に合わせた祭事が、ブリテン島各地から人が集まる形で行われていた可能性が高まった。

●ドゥリントン・ウォールからエイヴォン川に出る道=アヴェニューが発見された。このことから、アヴェニューを歩いて河原に出、さらに川沿いに歩き、ストーンヘンジへと続くアヴェニューに出、最終的にストーンヘンジに至るという、祭事としての行列が行われたのではという解釈が生まれた。ドゥリントン・ウォールには木の柱を同心円状に並べたティンバーサークルがあり、隣に同じく木のサークルであったウッドヘンジがあったことから、居住地であった「生者の地」から埋葬地であり、死者、あるいは死後の異界に通じる場所としてのストーンヘンジに向かって歩くという行事が行われたのではないか、その前に大量の肉を屠って行う祝宴があったのではという仮説が生まれた。この行事にはブリテン島各地から4000人ほどもの人が集まったのではないかともみられている。

●ドゥリントン・ウォールに残る家畜の骨から、それら牛やブタがブリテン島各地から持ち寄られたものであったことがわかり、さらに同時期にブリテン島に広く共通する土器の様式や住居の様式が生まれたことなども考え合わせると、この時期にブリテン島全土におよぶ共同体意識が生まれ、遺跡の建造はその共同性の意識を高めるためのものだったのではという解釈がなされている。

●なぜブリテン島全土から人が集まる場所としてストーンヘンジがあるソールズベリー平原が選ばれたのか? 
ごく最近の調査により、紀元前7500年の中石器時代から紀元前4500年頃、このエリアに人が住んでいたことがわかったが、パーカー・ピアソンはストーンヘンジの入口につながっている、古代の道「アヴェニュー」に着目する。彼はこれが元は氷河が動いたことで自然に出来た直線状の溝であり、これが偶然夏至の日の出から冬至の日没方向を結ぶラインになっていたため、これにある種の神秘性、宗教的重要性を認めた人たちによって特別な場所とされたのではないかと考える。ただし、アヴェニューが元は氷河によって作られた溝だったというのは具体的な証拠に基づいているものではないようだ。

エイヴォン川ストーンヘンジを繋ぐアヴェニューの、川側の起点となる部分に、直系約10メートルのヘンジの跡が見つかる。「ブルーヘンジ」と名付けられたこのヘンジにはブルーストーンをサークル状に27個置いたとみられる穴も発見された。紀元前約3000年頃のものと見られ、ストーンヘンジのオーブリー・ホールにブルーストーンが置かれた時期と同時期に置かれたものとみられる。ブルーヘンジで死者を火葬し、遺骨をストーンヘンジに運ぶ儀式が行われたのかもしれないとの仮説もうまれた。

ストーンヘンジは現在の形に完成してからほんの数世紀しか使用されずに、放棄された。その原因は「ビーカー人」と呼ばれてきた、大陸から青銅器を持ち込んだ人々の渡来による社会・文化の変容によるもので、冶金技術の移入によって、ソーシャルバランスが崩れ、大規模な共同体意識が失われ、社会的な格差が顕在化し、個人の権威を重視する特権階級が生まれたのではとみられている。ストーンヘンジの周辺に青銅器時代の個人墓が多数あることにも裏付けられていると言えなくもない。

2009年まで行われた発掘調査による遺物の詳細な解析結果がここ1-2年に次々に出ている。