スラウェシ島探訪1-2日目

 インドネシアスラウェシ島を訪れることにした。アルファベットのKのような形をした島で、かつてセレベスと呼ばれていた、赤道が通る島だ。1942年から終戦まで日本に占領されていた島でもある。
今年はどこにも行かないつもりだったが、夏休みもなかったので、どこかに行きたいという禁断症状が抑え難くなってしまった。
10日ほどの休みで、あれこれ行き先を考えたが、最も行きたかったブラジルのカピバラ渓谷(南米最古の岩絵がある場所)は時間的に難しく、オーストラリアのバラップ半島かカーナーヴォン渓谷にアボリジニの岩絵を見に行こうかとも思ったが、バラップ半島の石彫は人間の姿の絵は撮影禁止、カーナーヴォン渓谷は意外に時間がかかる、などいろいろ難しく、結局、岩絵にこだわらず、以前から行こうと思っていたスラウェシ島に巨石像とトラジャの独特な埋葬の風習を見に行くことにした。

 10月8日、成田を午前10時台に出て、ジャワ島のジャカルタに午後5時頃着き、LCCに乗り換えてスラウェシ島のマッカサルの空港のホテルで一泊、翌朝早く中部スラウェシのポソに飛ぶ予定だった。珍しくJALジャカルタ行きが安かった。が、搭乗時間近くになって、トラブルで出発が夕方の4時過ぎになるという信じられないアナウンスが。しかも出国手続きを済ませているので、搭乗エリアから出られないという。成田で延々待たなければならないだけでなく、翌日朝からツアーの手配をしていたので、そのままでは全てが狂ってしまう。慌てて携帯でインドネシア国内の便を調べた。LCCウィングス・エアーがジャカルタからマッカサル経由でポソまで早朝に出ていることがわかり、そのまま携帯で予約した。インドネシアLCCの便がとても多い。なんとか現地到着が2時間遅れる程度で、予定はほとんど変更せずに済んだが、ジャカルタに深夜に着いて、朝4時の国内便に乗るため、全く寝ている時間がない。そのまま熱帯の国を一日撮影で回るというのはなんともしんどい。


 ジャカルタ空港に着くとJALの職員がずらりと並んで頭を下げていた。ホテルを無料で手配してくれるというが、国内便のチェックインまで3時間ほどしかない。ホテルでしっかり寝る時間も無いが、ずっと空港にいるのも消耗するだろう。迷う。
 結局、ホテルまで15分だというので、少しでも仮眠しようとホテルに行くことに。同じ境遇の者数人を乗せてシャトルバスは出たのだが、30分以上経ってもホテルに着かない。元ロッテの捕手・里崎に顔が似ている運転手の様子も少しおかしい。我慢できずに、インドネシア人の乗客に「ちょっとおかしくないですか?」とたずねると、「運転手が道に迷っている」というまさかの返事。空港のすぐ近くにあるホテルなのだが、何を勘違いしたのか市内にどんどん向かってしまっている。緊急でJALが雇った運転手だからだろうか。スマホのナビ機能を使って運転手に道を教える乗客がいて、ようやく場所は特定できたのだが、なんとホテルに着いたのは空港を出てから1時間半も経ってからだった。
 こんなに悪いこと重なるか?と驚いたが、もうひとつ驚いたのはインドネシア・ビジネスマンの温厚さだ。誰一人として怒ったり、声を荒げたりしない。感心した。電車が少し遅れただけで駅員を怒鳴りつける日本人とはえらい違いだ。が、私はそんなにのんびりしてはいられなかった。下手をするとホテルに着くやいなや、タクシーで空港にとって返すというアホなことをしなくちゃならないのだ。
 ホテルに着くと、またもやJALの職員が二人深々と頭を下げて待っていた。男性職員が「あぁ...どうしてこんなことが...」とか言っていたが、それはこっちの台詞。結局、1時間後にホテルを出るはめになり、仮眠どころではなかった。

 4時の飛行機でスラウェシ島南端の大都市マッカサルで乗り換え、プロペラ機でPoso空港に着く。オリーブ・グリーンの兵隊のような帽子をかぶった小柄な人がこっちを指さしている。予約したVictory Hotelの女マネジャー、ドリスだった。女兵士のような出で立ちだが、よく見ると日本でもよく見かけるような顔のおばさんだ。彼女と夫グナワンの運転するボロボロのダイハツの4WDに乗って、早速石像を見に出かけることになった。随分年季の入った車だねと言うと、グナワンはエンジニアで自分で車を何台も再生したと言う。ダイハツの4WDは彼が修理と改造を重ねたもので、大きな音の出るクラクションが追加装備されたりしている(カーブが多い山道で対向車に気づかせるため)。どこかに穴が空いているようで、排気ガスが少し車内に入ってきているのがちょっと辛かったが。


 石像文化の痕跡が残っているのは、インドネシア中部の港湾都市Posoの南西、Lore Lindu国立公園の東、南東に広がる三つの谷だ。今回はPosoの南にある町テンテナTentenaのVictoryホテルが問い合わせに丁寧に答えてくれたので、この宿に遺跡の案内ごとお願いした。テンテナから50キロも離れていないエリアなのだが、行ってみると山を越える道がなんとも荒れていて、わずか50キロほどに5−6時間もかかるのだった。十数年前は普通の山道を行くしかなかったので、2日がかりだったという。雨で道が陥没する、土砂崩れする、木が倒れてくるなど、いろんなことがあるようで、場合によっては目的地直前に引き返さなければならないこともあるようだ。
「大きな岩はどけられないけど、木ならチェーンソーを積んでるから大丈夫よ」とドリス。チェーンソーを積んでる4WDは無敵かもしれない。

 途中いくつも警察によるゲートコントロールがある。ポソ県はISISとも関連があるジェマ・イスラミアなどのイスラム過激派が島外から入っていて、10ほど前にはクリスチャンへの攻撃事件が多発していた。宗教戦争とまで呼ばれ、クリスチャンの女子学生達が斬首される凄惨な事件が起きている。スラウェシ島はクリスチャンが多く、中部もかなりの割合がクリスチャンなのだが、ポソ周辺はイスラム教徒が多いのだそうだ。現在も山中に潜伏していて、半年前には警察のヘリが撃墜される事件も起きている。

 ポソから西へ山を越え、Napu谷に行く。険しい山道だ。所々、倒木や落石がある。山の東側は熱帯雨林の植生だったが、途中から高原のような景色に変わる。しかも松が生えている。焼き畑でハゲ山になったところに、松をインドから輸入した植えたのだそうだ。

 谷に降りると、政府が島外からの移住者を積極的に受け入れている地域に入る。エリアの入り口には大きなアーチやモニュメントが立ち、ここが一種の「特区」のようにして開発されていることがわかる。タピオカの栽培をしている中国人などもいるようだ。車内でのちょっとした会話からも地元のクリスチャンは島外からの移住者をあまり快く思っていないことが伺われる。トラブルの元なのだと。
「クリスチャンには子どもは2人までが望ましいと指導するが、イスラム教徒にはそんなことはしてない。政府はクリスチャンの数を減らしたいに違いない」と、行政に対する不信感も強い。10年ほど前に宗教対立が続いたとき、クリスチャンの一部が行政に対して襲撃事件を起こしていることからも、一種の政治不信が見える。

 Napu谷に入り、最初に見たのはWatu Tau村のPendoiya Datuと呼ばれる大きな甕のような巨石をくりぬいたものだった。現在、村に入る手前の眺めの良い場所にあるが、置かれた時には周囲に森があったのかもしれない。こうしたものはKalambaと呼ばれている。この甕の用途については諸説ある。墓なのかどうなのかが最大の争点かと思うが、墓では無いと考える人も多いようだ。蓋があり、墓だとしても、個人の墓ではなく、おそらく「家」の墓なのだろう。中から遺骨や土器が出てきたものもある。この棺は現地では女王の水浴び場と言われている。実際、Kalambaは水浴びの儀礼に使ったものだという説もある。


 次にWatu Tau村に入る。この村の名は「石の人」という意味で、石像に由来する名だ。後で知ったが、ドリスの祖父はこの村の長だったらしい。
家の庭に立つ石像を二つ見た。一つはオリジナルの位置、もう一つは少し離れた場所から運ばれたもののようだ。


 Napu谷から南のBesoa谷に入る。Besoa谷は土が肥えているようで、昔から作物が良く育つ、豊かな場所なのだという。水田が広がっている。こちらの稲は日本で見るものより背が低い。二毛作だという。Doda村にあるTadulakoという石像を見る。頭に何か巻いているような(髪形かもしれないが)独特な姿だ。石像に至る道の途中に伝統的な高床式の家屋が二棟あった。ひとつは住居、もうひとつは納屋だが、保存状態が良い。今でもこのタイプの建物はあちこちにあるが、皆、かなり荒れている。この建物は夏場などに地元の若者が泊まったりする以外、使われていないようだ。家に入るはしごに人の顔がついているのが印象的だ。




 次にBesoa谷内のHanggira村にあるPokekeaという、大きなKalambaがたくさん残っている場所に。蓋に猿のような動物が彫られているものもある。割れた器の中を見ると、内側もとても滑らかな面に仕上げられていることがわかる。四角い棺のようなものの前に二体の石像が置かれたものもあり、石像が墓とセットだったのかもしれない。Tadulakoの石像の周囲にも残骸のような石の破片が落ちていた。





 この日はあまり天気が良くなく、山のどこかで雨が降っている感じだったが、Tadulakoを見終わった頃に降り始め、猛烈なスコールになった。車からそれなりの距離あったため、途中石橋に屋根がついているところで雨宿り。ところが全く小降りになる気配がない。
「どうするの? このまま待つ?」とドリス。服が濡れるのはいいけどカメラがずぶぬれは危険だなと迷っていると、ドリスが一緒に雨宿りしていた若い男の子に「そこのバナナの木の葉っぱを二、三切ってくれない?」と。バナナの大きな葉を折り畳み、カメラバッグを覆って、さてと思っていたところ、夫のグナワンが傘を持って迎えに来たのだった。

 この日、私はてっきり予約していたテンテナのホテルに行くのかと思っていたら、ドリスが、これからテンテナに帰るには6時間くらいかかる、と。これから6時間、がたがたの山道を──。かなり夜遅くなってしまう。それより、近くの知り合いの家に泊まりましょ、とドリス。
民家か──。丸二日以上ほとんど寝ておらずヘトヘトだったので、ホテルで誰に気兼ねすることなくビール飲んでひっくり返りたかった。
ドリスが、「夜の山道はあぶないのよ、イシス(ISIS)がいるわよ」「熱いシャワーだってあるんだから」というので、勧めにしたがって民家に泊めてもらうことにした。
 Watu Tau村の民家は薄い板とトタン屋根で出来たもので、なんと、グナワンが「俺が建てたんだ」と言う。ドリスの親戚の家だった。家族皆、暖かく迎えてくれた。
子どもが6人いて、歌を歌ってくれたが、これがびっくりするほど上手く、感激した。

ドリスが「さ、熱いシャワーが用意ができた〜」と言うのだが、見れば火にかかった大鍋がグラグラ沸いているものを指差しているではないか。これをタライに入れてお湯の行水ということだが、狭いトイレで便器の横で浴びるとなってちょっとなかなかリラックスできる感じではない。こちらのトイレは所謂ボットントイレではないが、水を流すタンクはついていない。自分で横においてある手桶で水をかけて流す方式だ。
グナワンのつくった自家製ヤシ酒(はちみつ入り)を飲み、早々に蚊帳のかかったベッドで寝る。ヤシ酒は梅酒のような感じだった。