スラウェシ島探訪4日目

この日は西のBada谷に。山を越える道は10数年前まで未舗装のかなりラフな道で、「歩くのとたいして変わらない速度」でしか走れなかったという。石像がテレビ番組やネットで紹介されるようになったのはここ10年くらいなので、そういう事情だったのかと納得。道は現在、舗装はされているが、短時間に凄まじい量の雨が降るため、山の斜面から大量の土砂が流れ出し、道がゆかるんでさながらオフロードのようになっている場所がある。舗装面の下の土が流れて、大きく陥没している所もある。雨季には道が通行不可になっていることも多いようで、行ってみないとわからない、という感じのようだ。他に道は無い。

途中道沿いの大きな木にサイチョウの群れがとまっていた。できれば見たいと思っていた鳥なので、大いに興奮する。スラウェシ島で人気の高いアカコブサイチョウだが、「ジャングル・トレッキングしたからって、猿もサイチョウも見られるとは限らないのよ。それをわかってもらわないと困るね」とドリスが繰り返して言っていた。ドイツ人など、ジャングル・トレッキングに来る人は少なくないが、何も珍しい動物が見られずにがっかりして帰ることも少なくないのだそうだ。

先ず、Langke Bulawaの石像を見る。これは女性像とされていて、確かにほっそりした女性的な顔立ちにも見える。ただ、下腹部に摩耗しているが一物がついているようにも見え、本当に女性像なのか、なんともいえない。手の指が三本しかない。お腹がふくれているために妊娠しているのだという話があり、このことはBada谷最大のPolindoの石像と関連した昔話を生んでいる。

次にLogaの石像を見る。丘の上から見下ろしているような形で立つ比較的小さな石像で、これも女性像とされているようだ。かつて王様に側室として召し上げられ、恋仲だった男を忘れ難く村を眺めているのだと。

その、Logaの女性と恋仲だったというのが、この小さな石像で、Ariimpohiの交差点の真ん中にコンクリートで固定されている。モヒカンのような独特な髪形だ。インドネシアは子どもが元気かつ人懐っこい、すぐに集まってくる。

次は延々と水田のあぜ道を歩いて最もユニークな石像、Baulaへ。


これは水牛といわれているのだが、どうなんだろうか。体に彫られた細かい穴や線刻も面白い。イギリスのカップマークのように、小さな凹みがたくさんつけられた石があちこちにある。何か意味があるのだろうが。線刻はアボリジニのものにも似ている。水田は二毛作で植えたばかりの田もあれば、刈り込んで脱穀中のものもあった。

池にホテイアオイの花が咲いていた。ホテイアオイは南米原産だが、観賞用に持ち込まれたのだろうか。

スラウェシ島はカカオ畑が多い。カカオは熟して赤くなるもの、黄色くなるものなどいくつか種類があるようだ。カカオ畑を抜け、かつて村があったとされる場所に置き去りにされるようにして残っているTinoeの石像を見た。かなり傾いている。
熟したカカオの実を初めて食べた。中は大きな果肉がぎっしりと詰まっているが、味がある部分は少ない。果肉の房の周囲に甘酸っぱい味の部分があり、これがどこかマンゴスチンのような風味だった。いわゆるカカオの香りは一切ないが、あれはアーモンドくらいの大きさの小さな種をすりつぶしてとるものだ。畑で実際に実をつぶして種を干していた。


Obaの石像は猿と言われている。これは確かにそんなフォルムだ。ヘソが飛び出てるのがまた特徴がある。

次にBada谷だけでなく、インドネシア中部で最大の石像Polindoを見る。長さ4m近くある巨石像だ。この日最初に見たLangke Bulawaの像が王女でこのPolindoの巨石と恋仲になり、妊ったが、身分が違うと王様に結婚を認められなかったという話がある。王女は罰として指を切られた(だから3本指になっている)ということらしい。石像が作られた年代については諸説あるようだが、このPolindoの石像を見ると、まだエッジがシャープで、一部で言われているように紀元前のものだとはとても思えない。手の形がどことなくイースター島のモアイにも似ている。

Bada谷の石像最後のサイトは大きなKalambaがたくさんあるSusoだ。大半が破壊されている。面白いのは明らかに作成途中で放棄されたものがあることだ。石像文化の最晩期のものなのだろうか。飛鳥の石像群のように、一時的に花開き、突然終わってしまった文化なのかもしれない。

中が浅く、二つに分かれているKalambaもある。これを見ると、墓ではなく、他の用途があったという説にも説得力を感じる。

このエリアはKalambaの残骸ばかりで石像はたったひとつだが、これが斜面を転がり落ちて、小さな川にかかる石橋のようになっている。この石像もまた粗削りのまま放棄されたように見え、「突然終わった」という印象を強くするのだった。

三日にわたってこの地域の石像を見て回ったが、もちろん全てではない。特にNapu谷にはまだ見ていないものが多くある。が、おそらくほとんどのタイプのものは見られたのだと思う。地図で見るととても狭いエリアだが、険しい山と変化の激しい気候から、移動のとても難しい地域なのだということがとてもよくわかった。「あなたは時間が短すぎる」と何度もドリスに言われた。日本からのツアーなど見ると、もっと過酷なスケジュールなのだが...。
帰りも行きと同じ道を引き返したのだが、朝と同じ木にまたサイチョウが集まっていた。朝はあまりじっくり見る時間がなかったが、今回は雄、雌の違いなど細かく見ることができた。頭が赤いのは雄、雌は黄色い。こんなに簡単にたくさん見られるなんて、本当にお前はラッキーだと言われる。


宿に戻る途中、テンテナの有名な滝に寄る。丸みのある岩肌に襞状の凹凸があり、流れる水がその凹凸に当たって細かいレースのようになる美しい滝だ。滝を見ずしてテンテナは語れないと言われるだけはある。

滝周辺はバリ島からの移住者が住むエリアだった。家の様式と庭に置かれた塔などのモニュメントでそれとわかる。トラジャから来た人たちもやはり独特な反り返った屋根を模したものを付けている。彼ら、比較的新しく移住してきた人たち以外は同一の民族なのかといえば、そうではない。テンテナ周辺でも昔からいくつかの部族が住んでいて、僅か数キロしか離れていない所に住む部族が、言葉も全く異なる場合もあるのだという。ヴィクトリーホテルにいた体躯の良い男性はモリ族系の出身だと言っていた。彼は日本語を学んだことがあり、娘にモリコという名をつけたのだと。この島にどのように人がやってきて、どのように島内を動き、あるいは島からまたさらに遠方へと出ていったのか、興味深い。バダ谷の石像の手の形がモアイに似ているのも、何か具体的な関連があるかもしれないと思うのだ。

この日の夜は近郊の金とニッケルの鉱山で働く中国人の団体が泊まりに来て、大変な喧騒だった。騒がしいだけでなく、痰を切る音が深夜まで響いて辟易した。日本も70年代くらいまでは痰を吐く人が結構多かったが、最近はめっきりみかけないし、音もきかない。亡くなった姉が向かいの家の親爺が痰を切る音が耐えられないと言っていたのを思い出した。

晩ご飯にドリスがウナギ料理をふるまってくれた。昨日からの約束だったのだ。ウナギの唐揚げと鰻が入ったスープだ。ドリスに見つめられながら食べたが、スープが絶品だった。ベイリーフがたくさん入った、トムヤムクンから辛味を抜いたような味だったが、伝統的な味付けとのことだった。茹でて縮んでいるはずだが、断面が4-5センチあったので、かなり大きなウナギに違いない。