バハ・カリフォルニア行5日目

寒かったが、なんとかぎりぎり眠れた。シュラフの中にスリーピングシーツというのか、昔ユースホステルでつかっていたようなものを借りたのだ。あとは枕とエアマット。
昨夜、ホセはどうやって寝るのかしらと思っていたら、彼も自分のテントで寝ていた。カウボーイは外で寝る人も多いようだが、火が焚けないとそれはきつい。それと、ホセは昔外で寝ていたが、夜薪を集めていたときに何かに指を噛まれるか刺されるかして(何だったかわからなかったようだが)だんだん毒が回り、最後は胃までおかしくなって病院にかつぎこまれたのだそうだ。それ以来、外で寝るのは止めたという。
「寝る前に靴を中に入れてね」とエドガル。サソリやらクモやらいろいろ入ることがあるからと。このあたりのサソリは毒はあまり強くないようだが。

だんだんと山の端が明るくなっていく。高い山に囲まれているので、陽が入るのが遅い。遠くの岩山の天辺を望遠で見たら、禿鷲が羽を広げて乾かしていた。頭が赤い、七面鳥のような顔のターキー・ヴァルチャーだ。日中は空を旋回して、屍肉を探している。


三泊同じ場所でキャンプするのかと思いきや、もう少し奥に移動する。そして三日目は山を上がった所でキャンプするという。三泊移動するというのはツアー会社の説明とちょっと違うが、そうしないと時間がきついのだと。ロバには申し訳ないが、もう一度荷物を背負ってもらうことになる。
朝ご飯はパンケーキを焼いてもらった。コンロが使えて本当によかった。


ベースキャンプは干上がった河原を一時間強かそこら歩いた所だ。高低差もあまりないし、たいした距離ではないが、ゴロゴロしていて歩きにくく、結構疲れる。今回ツアー会社のすすめで山歩き用のスティックを持って来たが、正解だった。石はほとんどが堆積岩だが、ときどき、溶岩系のものがある。バハ・カリフォルニア南部にはかなり活発な活火山があった(三つの連山で、確かThree Ladiesというような名前だった)ロバ・ラバ隊のカウベルの音と、「ブロ、ブロ!」と急きたてるホセの声が。ブロはロバのことだという。ロバを追うのに、「ロバ!」っていうのもなんだかおかしい。ロバもラバも悲しそうな目をしている。すまない、ロバよ、ラバよ。

昼前について、再びテントをはり、荷をほどき、トイレを作り、全てセットして昼食。昼食とかパンと果物くらいでいいんだが、そうはいかないとエドガル。毎食きちんと作る。ちょっと食べ過ぎで苦しい。


ホセとエドガルが話し合って、今日は遠い方の二つのサイトに、明日、近めの三つに行こうということになった。昼食後、さらに川を遡って(ほとんど水は無いのだが)、最初の場所Boca de San Julioに。途中、川の流れにかなり浸食されて大きくえぐられた場所があった。オーストラリアを思い出す。だが、ここはハリケーン以外はあまり雨の降らない所だ。どれくらい長く削られたのか。また、大きなリップルマークのある岩が転がっていた。海の底だったときがあるんだろうか。その岩にはなぜかいろんな人が名前と年号を刻んでいた。比較的最近のものが多かったが。


Boca de San Julioは比較的小さなサイトでほとんどが動物の絵だ。鹿、ウサギ、鷲...。バハ・カリフォルニアの岩絵は鹿の横顔がとてもいい。角の形も。一昨日行ったSan Borjitasと違って見学用の通路からしか見られないようになっている。世界遺産なのだ。




私がかなり長い時間をかけて写真をとっているのを見て、ホセが今日はもう他の場所に行くのは難しいんじゃないかと。もう一つのサイトに行きたければ、夕飯が遅くなるけどどうする?とエドガル。もちろんそれでかまわないと。

もう一つのサイトはLa Musicaという、川の対岸にある小さなサイトだった。格子模様の上に赤い人物像がいくつか描かれている。人物は半分黒だったものが消えているようにも見える。格子と人物像が楽譜のように見えるから、La Musica=音楽という名前なのだ。一人の背の高い人が丸いものを持っている。中には点々が。天空だろうか? ピザだろ、とエドガル。よくわからないが、動物がメインに描かれたサイトと違って、ここのものは何か少し呪術的な感じがする。



なんとか暗くなる前に二つ見て、キャンプに戻る途中、ホセがまた斜面をのぼり始めた。「来い」と手招きしている。少し上がるとシェルターがあり、大きな岩がある。内側から見て驚いた。びっしりと見事な模様が彫られている。写真で見たことがあるが、明日行く絵のある場所にあるのだと思っていた。ここはこの岩しかないのだ。すばらしい。予定に無かったし、エドガルも知らなかったが、ホセが特別につれて来てくれた。「お前は岩絵が本当に好きなようだから」と。ここは比較的近年になってみつかったのだそうだ。牧場のロバか逃げて探したところ、ここにいたのだと。発見者の名にちなんでPiedra de Chuy(チュイの石)と名付けられたそうだが、本当の発見者はロバだろう。


なんとか日暮れ前にキャンプに戻り、暗くなってから晩ご飯。丸一日歩いて写真を撮って(それもしゃがんだり這いつくばったりしながら)いたのでかなり疲れた。足がガクガクする。
キャンプに戻る直前、歩きながらエドガルに「今、俺が何考えてるかわかる?」と訊ねると、「うーん......セルベッサ(ビール)?」
よくわかってるじゃないか!

夕飯を食べ、ホセについて少し話をきいた。
百年ほど前、彼の祖父がシエラ・デ・サンフランシスコに来て牧場を始めたのだそうだ。牧場を始めたと言っても、オーストラリアみたいに広大な放牧地があるわけでもない。サボテンくらいしか生えてない岩山だ。山羊がメインで後は少しずつの家畜だ。道路も何も無かったはずだ。
彼はサンフランシスコ山地で生まれて育った。初めて岩絵を見たのは19のときだという。それまでも谷に降りたことはあったが、見る機会がなかったと。地元の人は岩絵にそんなに興味無いのだ。そんな余裕は無いというべきか。厳しい暮らしで外から新しい人が入ってくることが少ない。どうしても親類内で結婚することになるので血も濃くなっていろんな問題もおきる。
彼は40近くになって結婚し、二人の娘が生まれたが、二人目の出産で妻を亡くした。わずか二年の結婚生活だった。

ところで、エドガルがジブリ・アニメの大ファンだというので、ハヤオ・ミヤザキは俺の家の近くをよく車で通る、喫茶店でタバコ吸ってる、というと、「マジで? 話したことあるの?」と。もちろん無い。トトロの森のモデルになった森もあるぞ、というと、「マジで? 本当にあるの? 信じらんない」と。森はある。トトロはもちろんいない。『火垂るの墓』も何度も見て泣いたというので、あれは一部作家の実話に基づいてるんだと話す。面白い作家で、最近亡くなったんだが、彼は歌手でもあったんだと。
こんな歌、と言って「黒の舟歌」を歌った。寒々とした岩山の谷に「ロゥアンドロゥ...」の声が響き渡る。何でこんな所で私はこんな歌を。
「なんて悲しげなメロディーなんだ。どういう詞なのか教えてくれ」とエドガル。
歌詞について話すと、「なんでその内容でそんな悲しげなメロディーなんだ。おかしいだろ。舟をこぐって、それはアレじゃないか」とエドガル。ええそうです。
ホセもときどき小さな声で鼻歌を歌っている。そして、「フリオ、フリオ、フリオ(寒い寒い寒い)」としきりに体をさする。カウボーイが寒がるんだから、本当に寒いんだ、ツアー会社に言ってやろう。

ホセの犬スコは何でも食べる。かなり辛く味付けされたものも食べているので、ちょっと塩気が多すぎてよくないんじゃないかと思ったが、こんなに厳しい場所で14年生きてるんだから、問題ないな。静かな犬でほとんど吠えないが、時々暗闇に向かって低く唸る。これがちょっと怖い。
この山地にはマウンテン・ライオンがいるし、かなりワイルドな山猫もいるという。なかなか見ることはないようだが。スコは勇敢な犬で牧場に入って来たコヨーテと闘ってかみ殺したのだそうだ。