ブラジル・ピアウィ州、カピバラ渓谷探訪記1

羽田を8日の0時過ぎのエミレーツ航空に乗り、ドバイ経由でブラジルへ。
エミレーツは初めて乗る。東回りだとアメリカ経由が多く、アメリカの例の面倒な入国審査をうけたくなかったのと、乗り継ぎがあまり効率的ではなかったため、エミレーツにしてみた。が、出発前から出ていた腰痛がなかなか治らず、間をおかずに飛行機を乗り継ぐことが逆に負担になってしまった。ドバイからサンパウロまで15時間もかかるのだ。さらに同日国内便に3時間以上、翌朝早くから自動車に8時間以上乗らねばならない。本格的な腰痛になったら、重いリュックをかついで歩くこともままならないかもしれない。2月にメキシコから帰ってから、1日の休みもなく、ずっと椅子に座りっぱなしだったのが祟った。
今回、金額があまり変わらなかったのでエミレーツから直接チケットを購入したのだが、ウェブでチェックインしようとしたら、比較的安い値段で「ビジネスにアップグレードしませんか? フル・フラットのシートで快適な旅を」という表示が。迷わずドバイーサンパウロ間だけビジネスにしてしまった。腰痛さえなければこんな無駄な出費はしなくて済んだのだが。
フル・フラットのシートはすごい。完全にベッドだ。それでも腰が痛かったので、ずっと座っていたらどうなっていたか考えると恐ろしい。
ドバイに着くと、メールにブラジルの国内線ゴル航空から連絡が入っていた。「あなたの予約に問題があり、至急連絡したし」と、そういわれてももう搭乗寸前で、返信するのがせいいっぱいだった。もし乗れなくなったら全く余裕のないスケジュールを組んでいるので大変なことになる。現地ツアー会社は英語が話せないというし、どうやって遅れを知らせたらいいのか、と、モヤモヤしつつサンパウロに着いた。これがなかったら、もっと初めてのビジネスクラスの贅沢な感じを満喫できたかもしれないのに無念だ。「ワインはいかがですか、これがリストです」などと盛んに来ていたが、ひたすらマグロのように寝ていた。
サンパウロのゴル航空のカウンターに行くと、日系の女性が係員で、スムースに問題が解決した。ほっとしつつ、さらに国内線でピアウィ州の州都テレジナに。深夜0時着。日本との時差は12時間なので、36時間かかったことになる。しかも、ずっと7月8日だった。


今回、自分で回ろうかどうしようかずいぶん迷ったが、いかんせん、カピバラ渓谷の情報が全然ない。遺跡ではガイドがつくようだが、ポルトガル語だけだ。全て見て回ろうとしたら10日はかかるというので、できれば相談しつつどこに行くか決めたかった。また、腰が辛いこともあり、テレジナからバスで10時間以上かけて行くのがまたしんどい。迷ったあげく、直前にブラジルのツアー会社と交渉して個人ツアーを組んでもらった。ずいぶん費用のかかる旅になってしまった。
ドライバーのエルビオは英語の上手い、また日本についてもよく知っている人だ。少林寺拳法を習っていたと。ブラジル人は格闘技が好きだ。
ひたすら南へ500キロ以上走る。椰子がまばらに生えるブッシュのような植生から、だんだんサボテンなどが増える乾いた景色になっていった。caatingaと呼ばれる、サボテンや背の低い有刺植物を中心とする植生で、ブラジルのこの地域特有のものだという。カピバラ渓谷付近はブラジルで最も乾燥した場所でもある。二年半雨が降らなかったこともあるという。
途中、道路沿いの食堂で昼食。ラム肉の煮込みとビーフの干し肉のステーキ、焼き飯、サラダなどなど。生ジュースもたのんで一人800円弱。安い。

3時近くにカピバラ渓谷入り口の町Sao Raimundo Nonatoに着く。すぐに「Museu do Homem Americanoアメリカ人博物館」に入る。


カピバラ渓谷の発掘調査は1970年代にフランス系ブラジル人ニエデ・ギドンNiède Guidonを中心としたブラジル・フランスの合同チームによって始められた。以後、アメリカ大陸への人の移動の定説を覆す数々の発見があった。最も古い方解石の固まりの石器は10万年前という数値が出ている。さらに、居住跡らしき所から10000年前から9000年前の炭片が発見された。これについては、アメリカの考古学界から異論が噴出する。それまで13000年前に石器類を残したクローヴィス文化がアメリカ大陸に最初にベーリング海峡経由で渡った人たちの痕跡だというのが定説だったからだ。炭は山火事による自然のものだろうという反論も多かったようだが、その後、別の場所から同じ年代の炭がまとまって出て来たことで論争に決着がついたと掲示されていた。岩絵については最も古いものは3万年前まで遡るとあった。これも驚きだ。これは剥落した岩絵の破片がこの年代の地層から出土したことから見積もられた数字で、それ以前、ということになる。


博物館は映像やインタラクティブな装置のある、とてもよくできたものだった。世界遺産に登録されていることもあり、かなり予算を使って建造したのだろう。公園は国立公園だが、運営はギドン博士が中心になって設立した「アメリカ人博物館財団=Fundaçao Museu do Homem Americano=FUMDHAM」が行っている。公園を管理するだけでなく、かつて公園内に住んでいた地元民などに職を与えるため、職業教育などを行っている。ハチミツ採取などの新規事業も立ち上げている。
だが、遺跡を訪れる人は決して多くなく、昨年は一年で一万人を割ってしまった。二年前、財団は破産の危機にあり、そうなると公園も閉鎖される可能性があったが、ギドン博士がヨーロッパなどを回り援助を呼びかけ、なんとかなっているようだ。彼女は非常にエネルギッシュな女性で、運営も彼女の力によるところが大きいようなので、彼女亡き後どうなるかと心配もされているようだ。

博物館を出た後は、公園の入り口の町、Sao Raimundo Nonatoに。長かった。