アルゼンチン岩絵撮影行その1

アルゼンチン、パタゴニアサンタクルス州にある約9000年前の岩絵サイト、Cueva de las Manos=手のひらの洞窟とその周辺を巡る旅に出た。

2月10日、成田を午後7時過ぎに出発して、ニューヨーク経由でブエノスアイレスに翌午前11時頃着く。ニューヨークまで12時間、トランジットが3時間半、ブエノスアイレスまで11時間の、延べ26時間以上かかってさすがに披露困憊した。ニューヨークはこの冬大寒波で水道管が破裂、空港内が水浸しになるなど、トラブルがあったので、遅れや欠航が心配だったが、運良く気温が高めのサイクルに入っていた。水浸しの痕跡も無いように見える。
本当はなにかと感じの悪いアメリカの入国を避けて、ニュージーランド経由で行きたかったのだが、決めるのが遅すぎてもうチケットが無かった。ただ、昨年メキシコに行った時のロサンゼルス空港もそうだったが、最近、アメリカの入国審査は、ESTAでの入国経験者は機械での自動手続きを使って簡略化しているので以前よりもストレスがなくなっている。ニューヨークで一度荷物を受け取らねばならないのは煩瑣だったが。

ブエノスアイレスで、ホテルに早めにチェックインさせてもらい、ダウンタウンのボカ地区に行ってみる。今日は日曜で地元のサッカースタジアムでボカ・ジュニアーズの試合があるから、行くなら明日にした方がいいとホテルのフロントが。スタジアム周辺は結構な騒ぎになるからということのようだ。だが、明日はブエノスアイレスにいないので、タクシーで早めに行くことにした。
ボカ地区はカラフルな家並みが有名な観光スポットで、小さなエリアが観光客でいっぱいだ。大きなツアーバスも何台も停まっている。中国人観光客が多い。
土産物屋とレストラン、カフェばかりだが、楽しめた。バルコニーや窓に人形がたくさん置いてあるが、タンゴの人形にサッカーのキャラクターが混じっているのが地元らしい。マラドーナの人形もある。
カフェでビールと(なぜか)ハンバーガーを頼んでゆっくりした後、歩いてホテルに戻る。スタジアム周辺では警官と救急車があちこちに待機していた。試合開始はまだ数時間後なのだが、爆竹を鳴らすサポーターもいる。「ボカ共和国」の壁画が印象的だった。「ボカ共和国」といえば、戦後民間出身のアルゼンチン大使になった津田正夫の本のタイトルだ。彼は戦時中、アルゼンチンに通信社員として駐在し、アルゼンチンが参戦するとスパイ容疑で留置される。あやうくティエラ・デル・フエゴの悪名高い刑務所に送られるところだった。彼の『火の国パタゴニア』は、ティエラ・デル・フエゴ旅行記で、先住民迫害にも言及していて、なかなか読後感が良かった。出発前に読んでおけばよかった。





途中、骨董屋が並ぶ路地があり、延々と骨董・古物などの露店市になっていた。毎日曜に開かれるらしい。古本屋も出ている。石を売っている店もいくつかあったが、見たところ地元のものはロードクロサイトくらいのようだ。コンドル・アゲートなどは全く売っていない。青っぽい玉髄もあるが、地元のものなのかわからない。民芸品はこれといったものはない。皮製品は特産なのかもしれないが。なぜかメキシコ風の骸骨の置物なども売っている。

ボカ地区のレストランは生演奏やタンゴダンサーがいる店が多かった。古物市の路地や公園で演奏している人たちも多いが、皆とても上手い。昼食をとった店も60代くらいの男性シンガーだったが、ギターも歌もとても良かった。ピアソラの曲をガットギターで弾いている人もいる。タンゴは観光客向けなのだろうが、フォークギター、エレキベース、ヴァイオリンという珍しい編成で演奏していたバンドが印象的だった。タンゴではないが、トラッド風の曲をやっていた。







アルゼンチンは20世紀初頭、ヨーロッパ主要国に並ぶほどの経済的地位にあり、ブエノスアイレスは南米のパリと呼ばれた。なるほど町には重工で豪奢な建造物がたくさんある。メトロポリタン大聖堂に入った。ファサードパルテノン神殿みたいだ。中に入ると建築の豪華さがわかる。床は延々と時計草の花をあしらったモザイクタイルだ。聖堂正面の紋章が血塗られたようにいたずらされていた。高い位置にある紋章だし、塗り方も上手い。そのままになっているところを見ると、最近やられたものだろう。

公園に中型の緑色のインコがたくさん飛んでいた。
疲れたので、早々に宿に戻る。テレビはサッカーばかりで、例の「ゴーーーール!!」を連発している。