ゴジラ

この一ヶ月ほど、ゴジラ映画を古いものから順に観ている。仕事場のケーブルテレビで、ハイビジョン化されたものを連続放映しているのだ。
ゴジラを映画館で観たことがなかった。子どもの頃は本当に観たかったのだが、頼んでも連れて行ってくれなかったのだ。唯一映画館で観た怪獣映画は南の島が舞台になっている、イカとエビの怪獣が出る東宝映画で、ゴジララドンモスラも出てこなかったのだ。
映画館で観たことはなかったが、詳しかった。ウルトラマン東宝怪獣映画に関する本をボロボロになるまで読んでいたからだ。幼稚園の友達・夏村君が持っていた本だったが、「この本が好きだ好きだ好きだ」と言っていたら、夏村君のお母さんが、「そんなに好きなら、あげるわよ」と、言ってくれたのだった。
上製本で、小学校中学年くらいを対象にしていた本だったので、中に入っていた「円谷英二物語」など、ほとんど読めなかったのだが、映画のリストが載っていて、映画名と登場する怪獣の名前をほとんど暗記していた。新聞のテレビ欄に怪獣映画のタイトルを見つけると、狂喜乱舞していたが、そのたびに、親父に、御願いだから見せて欲しいと頼みこまなくてはならなかった。隣で「くだらない」とか言われ続けながら観るのは、鑑賞環境としては最悪だったが。

あらためて観ると、第一作にはやはりなんとも言えない怖さがある。戦災映画といっていい。
だが、ゴジラはあっというまに、根は気のいいカミナリ親父になってしまう。怖くない。70年代半ばになると、ゴジラは日本の守護神のようになり、宇宙人から日本を守り、「ありがとう、ゴジラ」とか言われるようになるのだ。昔東京も大阪も滅茶滅茶にされたはずなんだけど...。日本人は忘れるのが早いよ。東京を火の海にした米軍に、「会ってみたらいい人たちだった。ありがとう」と言うような感じ。

ゴジラの息子」ミニラが登場したときは、子ども心にも、そんなの勘弁してよ、と思ったのだった。怪獣に「息子」なんて必要ないだろと。
であるからして、小学校低学年の頃にすでにある種の幻滅を感じていたのだが、公害怪獣ヘドラが出てきたときは、これは是非観たいと親に嘆願したように思う。人知及び難い得体の知れない怪物という雰囲気たっぷりだったからだ。観たかったのだが、残念ながら叶わなかった。
今回の放映で、実に37年経って初めて観たのだが、設定は面白いのに、ちょっと映像というか、撮られ具合が....残念な感じだった。面白かったのは「水銀 コバルト カドミウム ...。汚れちまった海...」という主題歌とゴーゴーバーの映像くらいだろうか。

第一作のゴジラには「腹を空かせて来たのでは」というような言葉があるのだが、ゴジラが人を食らうシーンはない。血が流れる場面もない。他の怪獣も人を食べたり、踏みつぶしたり、握り潰したりする場面はほとんどないように思う。ともかくなぜか街を壊す。破壊の限りをつくしても、個人を襲うことはない。理由はよくわからないが怒っている、荒ぶる神、一種の天災だ。
アメリカのモンスターは個人に向かう。執拗に追いかける。食べる。想像を絶するような姿の怪物でも、より強い動物が弱いものを食らうというワイルドライフの原則に忠実だ。しかもほとんどの場合、究極の「下等動物」だ。そうでないと、恐ろしさにリアリティーがもてないのだろうか。
最近、「クローバーフィールド」なるアメリカの怪獣映画を観たが、やはり、このパターンを出ることはなかった。監督は私がしつこく見続けているテレビドラマ「LOST」の監督で、来日した際に日本の「怪獣文化」にふれたのが企画のきっかけだったというのだが、怪獣観に大きな隔たりがあるなと、あらためて感じずにいられなかった。