「ローズ・イン・タイドランド」

lithos2006-08-16

数年前だが、有名なブロック玩具レゴに、女の子向けの小さな赤ちゃん人形があった。高さ5センチくらいの大きさで、「母親(姉?)人形」の付属品だった。レゴというとどこか男の子向けのオモチャという印象があるが、おそらく女の子にも大いに遊んでもらおうと、ままごと遊びができるキットを作ったのだろう。手も足も動かない、単体では遊びようのないようなものだったが、娘が2.3歳の頃、これに大変な思い入れがあり、常に大切に身につけていた。電車に乗るときも、外に遊びに行くときも、外食するときも連れて行った。肌の色、髪の色の違いで数種類あり、いくつか揃えて買ってやったが、これらの「赤ちゃん」たちを使って、延々と一人遊びをしていた。要するに一人で全員分の会話をしていた。娘が一番大事に仲良くしていたのが、髪が茶色で黄色い服を着た「黄色い赤ちゃん」だった。金髪の赤ちゃんは性格が悪く、他の子をいじめるので、懲らしめられたりしていた。これくらいの年頃の子の一人遊びは普通のことなのだろうが、何十分、いや、放っておけば1時間でも2時間でも、言い合いをしたり、仲直りしたり、具合が悪くなったり、行方不明になったり、思いつく限りの出来事が起きていた。ひたすら数人格分しゃべり続け、泣いたり笑ったりするバーチャルな世界をずっと端で聞いていると、頭がクラクラしたものだ。
昨日見たテリー・ギリアムの新作映画「ローズ・イン・タイドランド」はそうした世界の非常に極端な話ともいえるものだった。主人公の女の子はすでに11歳なのだが、ドラッグ漬けの元ロック・スターの父(ジェフ・ブリッジズがくたびれた老犬のように!)と母との貧乏生活で、学校にも行かず、家で父親のドラッグの調合をしたり、母親の足をもんでやったりしていたので、頭だけのバービー人形四体だけが友達でいつもこの四人と遊んでいる。母親がドラッグで死に、父親とともに祖母の家に帰るが、広大なテキサスの草原にぽつんと建っている父親の生家はボロボロの廃屋になっていた。着いて早々、父親も「長い休暇」に入り、天涯孤独になり、この4人の「友達」とのバーチャルな世界が生活のほぼ全てになる。近くに住む10歳で脳の成長が止まってしまった男の子の想像の世界とも共鳴して、イメージの世界は現実世界を覆い尽くすほどになるのだが...というような話だ。あまり書くとネタバレになるので止めておくが、「ブラザース・グリム」で娯楽作に徹し、欲求不満がたまっていたギリアムが作りたいように作った、という感じの映画だった。大海原に見立てられた大草原と絶海の孤島のようなボロボロの家が実に印象的な風景で(ワイエスの「クリスチーナの世界のイメージだそうだ。確かに)、主人公の子役と頭に病気のある友達の男の子は迫真という感じだったが、隣席で嫁がウツラウツラしているのがずっと気になって仕方なかったこともあり、どうもこの「ひっくり返った」世界に深く入り込んでいけず、淡々と見てしまった。クビ人形たちとの会話が、あたかも観客を少女の「頭の中の世界」に引き込む呪術的効果を与えられているが、似たものを自分の娘でさんざん見聞きしていたせいだろうか、効果もほどほどという感じだった。好きな監督なので、もう一度見てみるとしよう。
私の娘は3歳の夏、「黄色い赤ちゃん」を初めての海外旅行に連れていった。自身の分身のようなものなので、一緒に初めての飛行機に乗り、船に乗り、一緒に外国人でいっぱいの食堂でご飯を食べた。緊張の連続に二人で対処しているような印象があった。粗忽者なのでしばしば食堂のテーブルや公園のベンチに置き忘れそうになった。民宿で行方不明になったときには、意を決して宿の夫人に「黄色い赤ちゃんをみませんでしたか」と日本語で尋ねた。最後にとうとう、田舎町の小さな教会の椅子の上に置き忘れてしまったのだが、気づいたときは数十キロも離れた後だった。「先に日本に帰ってるから」と話し、帰国後、慌てて代わりの人形を用意した。なぜそこまでしたのか、今となってはばかばかしいが、当時その人形は娘にとってかなりシリアスな問題で、親もその世界の端に引き寄せられていたのだ。ちなみに、この人形のシリーズは一般的には全く人気が無かったようで、あっという間に発売中止になっていた。