飛鳥・益田の岩船

芸術新潮』が飛鳥の特集をしている。ここ数年重要な発見が相次だし、さらに高松塚古墳キトラ古墳の損傷を放置したり傷をつけたりしていたことを隠していた文化庁の問題などがあったので、いろんな意味で話題にのぼり続けていたといえる。キトラ古墳の天井に描かれている天体図が当時の高句麗の都、現在の平壌のあたりで観測される様子を元にしているという話など、面白い話はいくつかあったが、特集記事全体としては少し散漫な印象だった。飛鳥全体がいまだ「断片の集まり」のようなものだから、ということもあるかもしれないが。
飛鳥には用途のはっきりしない巨石モニュメントが多い。私は22年前の2月、就職を前にして真冬の飛鳥を訪れた。就職といっても日給払いの待遇で一年契約という条件だった。試験や卒論の提出などが終わったら一日も早く来いと言われていたので、二月末から働くことになっていた。朝8時半に出社して掃除をせよ、ということだった。翌週から勤めが始まるという時になって、急に一人で旅に出たくなり、夜行の大垣行きに乗った。早朝に奈良に着き、駅でうどんを食べ、関西のうどんは旨いなあとしみじみ思ったのを思い出す。まあ、体が冷えきっていたので、かなりダメなうどんでない限り旨く感じただろうけれど──。
飛鳥の里の印象は、「めちゃめちゃ寒く、静か」というものだった。完全にオフシーズンだったので、飛鳥寺でも石舞台でもほとんど人に会うことはなかった。宿の手配など一切していなかったので、観光案内所に赴き宿を尋ねたが、この町には基本的に宿は無いと言われ、驚いた。ただし、看板は出していないが旅人を泊める家はあるのできいてみようと言われ、大きな元庄屋さんのような家に案内された。ご主人は当時70代くらいの方で、うろ覚えだが、井村さんとおっしゃったように思う。以前は宿屋をするなど考えてもみなかったが(確か、そういう商売をくだらないと考えていた、というニュアンスのことをおっしゃっていたように思う)、今では宿泊客と話をするのが大きな楽しみだと語っていらした。和装、小柄、静かで頑固そうな印象の方だった。家の前で写真を撮らせてくださいとお願いすると、気安く応じてくださったが、口を真一文字に結んだままだった。今でも写真は探せば納戸にあるに違いない。
蘇我馬子の墓といわれる石舞台も、酒船石も、亀石も面白かったが、最も印象に残っているのは益田の岩船だった。11x8x4.7mという石塊は圧倒されるような重量感だった。どれくらい重いのだろうか。ネットで検索すると800トンとか900トンという数字がでてくる。間違いなく、ひとつの岩から作り出したものとしては世界最大級の巨石モニュメントといえるだろう。全体に裾広がりの安定した形で、上面は平らに形成されている。四角い縦穴が二つスムーズに切り込まれており、側面には加工途中で放置されたかのような格子状の切り込みがある。棺を収める石槨を制作途中で放棄したものだとか、穴の中から星を観測したのではないかなど、諸説あるようだが、似たものが出てこないかぎりわからないだろう(諸星大二郎の『暗黒神話』では武内宿禰が人工冬眠するカプセルが入っているのだが)。松本清張は二つの穴を拝火教の火を焚いた拝火壇ではないかという説を小説化していた。火を焚いた形跡があるかどうか、今の技術でなら確認できるはずだ。
私が訪れたときは山の中腹にゴロリと置かれていて、周囲に遮るものもなかったが、『芸術新潮』の写真を見ると石の間際まで周囲を鬱蒼と竹林が覆っている。

以下に岩船の写真がある。
http://www.city.kashihara.nara.jp/bunkazai/kohun/index11.html