スラウェシ島・洞窟壁画撮影行 1日目

一昨年に続き、インドネシアスラウェシ島を訪れた。一昨年は中部のBada谷周辺の石像、タナ・トラジャ地方の埋葬文化・巨石の撮影に行ったのだが、今回はスラウェシ島南部に数多く残る現生人類で最も古い年代の洞窟壁画の撮影が目的だ。

2014年、スラウェシ島南部の洞窟に残る手形の年代測定で39900年以上前という数値が出たときは、とても大きな話題になった。絵を覆っていた方解石の結晶に微量に含まれるウラニウムの量から導く方法で出された年代だ。絵のすぐ上の方解石の層でその年代が出たため、その下にある絵はさらに古いということになり、少なくとも39900年以上前という判断になった。
現生人類による絵画は、それまでフランスのショーヴェの洞窟壁画から出た30000-32000年前という数値が世界最古とされていたし、「芸術」はフランスのショーヴェ、ラスコー、スペインのアルタミラなどの「クロマニヨン人」の素晴らしい洞窟壁画から始まった、というイメージが強かった。多くの美術史や美術全集の最初に、「芸術の曙」として登場するのはこれらの壁画群だ。そのため、スラウェシ島の壁画の年代測定値が出たときは、ヨーロッパの新聞記事で「ショック、芸術誕生の地はヨーロッパではなかった!」といった見出しがついたものもあった。4万年前に「ヨーロッパ」も何もありはしないのだが。ただ、実際は既にオーストラリアの壁画で約30000年前という測定値が出ていたし、さらに古いものがこのエリアで出てくるのは時間の問題だと考えられていた。
その後、スペインのエル・カスティージョの洞窟壁画からさらに数百年古い年代測定値が出たため、スラウェシの洞窟壁画は「世界最古」ではなくなったが、それは大した問題ではない。おそらく、今後さらに古い年代が出てくるだろうし、ネアンデルタール人による絵が残っている可能性も議論されている。認知考古学でこれまで考えられていたように、芸術表現は4万年前にヨーロッパで「獲得された」のではなく、人間がアフリカを出る前から行われていたに違いない。

スラウェシ島の洞窟壁画については、『ナショナル・ジオグラフィック』などで記事を目にしていたが、そんなに簡単に行ける場所ではないんだろうと考えていた。ボルネオ島の洞窟壁画が舟で川を遡上し、ロープで高い場所までクライミングするような大変な場所にあるため、どこかイメージがごっちゃになっていたこともある。
が、前回のスラウェシ島旅行の後、洞窟は比較的町から近い場所にあり、普段は施錠されているが、許可さえ得れば見学できそうだということを知った。がぜん行ってみたくなったが、どこに許可を得ればよいか、その方法が分からない。「大学に許可を得よ」と書いているサイトもあり、メールを書きかけたこともあるが、大学の代表アドレスにメールを送って返事が返ってくる可能性なんてほぼ無い。

最近になって、ふと、観光ガイドたちはそのへんに詳しいのではと思い、試しに前回の旅行で世話になったテンテナのヴィクトリー・ホテルのノニに、マッカサル周辺のガイドで詳しい人は知り合いにいないかときいてみた。すぐに返事がきて、マッカサルでガイドをしているDodoを紹介してもらい、そこからとんとん拍子に洞窟壁画を管理している政府機関・文化財保護局=BPCB, (Balai Pelestarian Cagar Budaya)のスタッフを紹介してもらった。自分は岩絵をテーマに写真を撮っている者で、今後、本を書く予定があるので、是非撮影を許可してほしいと自己紹介しつつ申請し、比較的スムーズに認められた。チャットアプリWhatsappを使って連絡すると、勤務時間外でも何か質問するとすぐに返事をくれるし、ここを見ては、という提案もしてくれる。前回の旅行の時も感じたことだが、私が会ったスラウェシ島の人たちは柔和で親切だ。BPCBの人たちの対応もとても役人とは思えない。
見学・撮影については、BPCBスタッフ2名の同行、期間中の日当、宿泊・食事の支払いが条件だった。物価が安いので、さほど大きな負担でもない。5日間という短い滞在だが、保存状態の良い絵が残っている場所を複数回れることになった。

羽田発のANAジャカルタに早朝に着く便に。Batikエアに乗ってマッカサルに11時に着いた。空港にはガイドのDodo、BPCBのアクラム、イムランの3人が待っていた。
Dodoは頭の禿げ上がった、一見60代半ばくらいに見える男だが、私と同い年、しかも誕生日も2日しか違わなかった。観光ガイドらしい陽気なオヤジだ。BPCBのアクラムは28歳、イムランは30歳。連絡していたBPCBの職員がこんなにも若いと思わなかった。同じ職場というだけでなく、友達同士らしい。
洞窟壁画の多くはマッカサルのすぐ北のMaros地方にある。空港からそのままMarosに向かうが、途中、礼拝のためモスクに寄る。前回スラウェシに行ったときはクリスチャンの多い地域だったが、南は圧倒的にムスリムが多いようだ。町ゆく女性たちはほとんどがブルカをつけている。

モスクの前に川が流れていたが、今は乾季なのでほぼ干上がっていた。待つ間、川沿いをぶらぶら歩く。ゴミが多い。一帯は石灰岩のカルスト地形で、採石場やセメント工場が多い。道路際のあちこちに積まれた補修用の岩塊に貝の化石が入っていた。パンの木があり、大きな実がなっている。ジャックフルーツだ。

礼拝が終わり、Leang Leang村に入る。Leang=レアンとは、洞窟のこと、二度繰り返すこの地名はようするに「洞窟がいっぱい」といったニュアンスだ。今回あまり時間が無いし、情報もほとんどなかったので、先方には先ず、39900年という測定値が出た洞窟は必ず訪れたいと伝えた。それがLeang Timpuseng(レアン・ティンプセン)だ。刈り入れの終わった稲田とトウモロコシ畑沿いの道に車を停めると、地元の男性が待っていた。施設の管理はBPCBが行っているが、鍵を管理しているのは地元の協力者たちで、彼らがいないと中に入れない。



洞窟は開口部が広いというか、鍾乳洞が大きく崩落して半分むき出しになっているような感じだ。あちこちで岩絵を見てきたが、鍾乳洞の中にある岩絵を見るのは初めてだ。4-5mほどの高さにある天井に黒ずんだネガティブ・ハンドとほぼかすれてしまったバビルサ(Pig Deer)の絵がある。手形は39900年以上前、バビルサの方は35400年以上前という測定値が出た。

つい最近NHKの科学番組「コズミックフロント」のシリーズで、この壁画を紹介し、氷河期にも孤立した島であったスラウェシ島に人間が渡るには航海術が必要だったはずで、それは星の位置に頼るものだっただろう、とし、この天井につけられた最古の手形はひときわ高い場所にあるので、天に手を伸ばすかのように付けられている、星と関連があるように思えてならない、云々と言っていた。随分てきとうなことを言っているなと思ったが、現場を見てみると、最古の手形はさして高い位置にあるわけでもなく、隣接する部屋にはもっと高い場所に押された手形もさくさんあった。もちろん、低い位置に押されたものもあるし、いろいろなのだ。鍾乳洞なので壁面の凹凸が多く、絵を描くための広い平面は天井部など、高い位置にしかないことが多い。その程度の理由のように見えた。
高い位置=天空=星というのは、きっと現場に来ていない作家が人類の移動というテーマに合わせたいがために、考えついた話なのだろう。
氷河期にスラウェシ島はたしかに孤立していたが、西のスンダランド(インドシナ半島スマトラ島、ジャワ島、ボルネオ島などが一体化した広大な陸地)とは現在のボルネオ島西岸よりもずっと距離が近く、最も近かったときは海峡程度の距離しかなかった。ここに到達するための航海はそれほど難しいものではなかっただろう。もちろん、さらに遠くまで航海することも多かったのだろうが。
有史以前の遺物はあれこれ想像をたくましくできるのが面白みではあるし、私のような専門外の人間が楽しめるのもそのへんなのだが、NHKの場合、個人の旅行記ではなくて「科学番組」なんだから、過去を想像するにしても、もうちょっと質の高いものにしてほしい。


バビルサの方はかなりかすれていて、はっきりしない。壁面には全体に方解石の結晶、通称ポップコーンが散っているが、絵の上に乗っているこれを採取して年代測定している。手形の小指の脇にサンプルを採った四角い穴が空いていた。随分大きな穴が空いているのでちょっと驚いたが、ある程度まとまった量がないとサンプルとして十分でないのかもしれない。

洞窟はいくつかの「部屋」というか、仕切られた空間に分かれている。最も古い年代が出た大きなスペースのすぐ横には手形のある小さな部屋があり、さらに右手にはまた別の空間があるが、そこには非常に高い場所に手形が複数押してあった。天空云々と言うのなら、こちらの方を選ぶべきだろう。オーストラリアでも、パタゴニアでもそうだったが、どうやって上ったんだろうと思うようなとても高い場所に手形がついていることはよくある。NHKが言うように「高さ」に特別な意味がこめられている可能性もあるかもしれないが、単なる遊び心、仲間内で高さを競ったものかもしれない。

Timpusengは水源という意味らしい。その名のとおり、水の湧いている穴がある。天然の井戸として使われいたのだろう。

Timpusengの後は、Leang Jingという洞窟に行く。場所はすぐ近くだ。ここは最初に連絡をしたBPCBの女性に教えてもらった場所だ。人物像があるから面白いのではと。彼女は本当に親切な人でアクラムの従姉妹だということだった。同行したいと言っていたようだが、ボスが女性が加わるのはよくないと却下したそうだ。
Jingは小さな入り口から入り、中は一部真っ暗でライトがないと絵は見えない。細い通路のような穴を抜けると別の開口部に出るのだが、途中くびれていて、光が入らないようになっている。


この洞窟の最大の見どころは髪の毛が逆立った、モヒカンのように描かれた人物像だ。これは髪形なのか、それとも描き方の問題なのか。腰のあたりがすこし太く見えるので、女性ではないかと考える人もいるようだが、腰のラインのように見える線は上半身の線と濃さも色も少し違うので、同じ絵の一部なのかよくわからない。他にも線画が多くあるのだが、かなり石灰質に覆われてしまっていて、判然としない。手形も複数ある。光が入らないせいか、色がよく残っているように見える。Jingは幽霊というような意味らしい。由来はわからないという。



Leang Jingの後は、Leang Leangの先史時代公園に入る。ここは石灰岩の奇岩が点在する、整備された石庭のような公園だが、壁画のある洞窟が2つある。私は最初この場所の洞窟に入ったインドネシア人のブログを見て、洞窟壁画は町からさほど遠くない場所にあると知ったのだ。


先ず、Leang Petta Kereに入る。ここにはバビルサの絵と手形があり、写真は見たことがあったが、なんと、修復というか、塗り直されている。1980年代に公的に行われたものらしいが、考古学的価値を著しく損なうものとして、その後批判されている。塗り直して公開しようと考えたのだろうが、結局、一般公開もしないことになっている(いたずら書きが多いので)。よく見ると、バビルサの脇の手形も輪郭を塗り直しているようだ。ただ、ここの絵は動物と手形のバランスがとても良く、壁面に散った方解石のポップコーン、経年的なかすれ具合、全てが一体化して美しい一幅の絵となっている。




さらに西に300ほど行った所にあるLeang Pettaeに入る。ここには小さな、手を加えていないバビルサの絵がある。発掘調査で、石器や食べた貝の殻などが出たという。



到着早々、ちょっと詰め込み気味のスケジュールをこなし、暗くなってからホテルに。とても大きなホテルだった。フロントで、「当ホテルは煙草、アルコール禁止のホテルです」と言われ、ガクッと来た。暑い中、洞窟の中で這いつくばったり仰向けになったり、汗だくになってきたんだからビールくらい飲ませてほしい。が、南部はイスラム文化圏、店でビールは売っているが、公共の場所で飲める所は多いないようだ。ガイドのDodoに相談すると、飲める店を知ってるから連れていってやる、と。結構な距離車で移動し、暗い裏道沿いにあるシーフード・レストランに。ビンタン・ビールを頼むと、イムランは自分は少し飲めるぞ、と。アクラムは戒律もあるし、体が受け付けないという。どうもイムランはさほど敬虔ではないようだ。二人とも煙草を吸う吸う。イムランは液体を入れて水蒸気を吸う、電子的なやつを吸っている。インドネシアというと、甘いガラムという煙草が一般的だと思っていたが、アクラムはマルボロを吸っていた。