地震6

地震からちょうど一週間。長かった。

地震の翌日がちょうど親父の入院と重なったので、数日バタバタだった。自分ではそれなりにきちんとやっているつもりだったが、今日は仕事でケアレスミスを連発。情けない。

自宅のエリアは昼から停電なので、その時間に合わせて父親の見舞いに。そういえば朝から食べていないなと、秋津の吉野屋に入って、牛丼とけんちん汁を頼んだら、「あと10分で停電なので、けんちん汁はできません」と。おや?「早い」が売りの吉野屋にして、この10分はかなりの時間の長さだと思うが、それさえも? けんちん汁はぬるくてもいいんだけど?と言うも、受け入れられず。久しぶりに吉野屋に入ったのに。

けんちん汁はともかく、ガソリン不足が続くと、入院している患者の着替えなど運ぶ家族も困る。母も86なので、荷物を持って病院まで30分歩くのはかなりつらいのだ。

見舞いの前に、自宅で仕事をするために、US配列のキーボードを立川のビックカメラに買いに行くが、電池売り場で人員整理的なことをしていた。電池売り場の前に立つ客を制限しているのだ。と言っても、すでに単一も単二も無いのだが。電池の買い置きが無いという母親に手持ちの単一を渡したので、ふん、ダイビング用ライトのリチウム電池ならあるでしょ、と思っていたら、なんと、それも売り切れ。

病棟には、たまたま姉も来て、久しぶりに家族がそろう。
父に、「おっ、今日は富士山がよく見える、ベッドから出てちょっと見てみたら」というと、「知ってる」「前に見たことある」と。当たり前なのだ。
「でも今日の富士山は見たことないだろ」と言うと、久しぶりに少し笑った。


さて、原発は、今日は放水以外に目立った進展があまりなかった。情報もあまり出てこなくなっているのが気がかりだ。電源回復が最重要かと思うが、明日実現するかどうかも少しわからない。昨日のブログで第二号炉の圧力隔壁の急激な圧力低下は数字の間違いであったというから、損傷もしていないのではと書いたが、どうもそうではないらしい。大いに落胆。さらに防衛大臣の「限界かと思い」のコメント、どうも昨日書いたような意味ではなく、本当に「事態が限度」というニュアンスだったようだ。また、四号炉の使用済み燃料のプールの水があるように見えたという自衛隊機からの目視での確認も、どうも「水面の反射と見える光を見た」という感じらしい。これもまたどの程度確実性のある情報なのかわからない。建屋は穴だらけなので、たとえば、リモコンヘリのようなものにカメラをつけて内部を撮影することはできないんだろうか。報道は、「たぶんこうだろう」というような言葉に溢れていて、なんともはがゆい。三号炉への放水も、水蒸気が大きくなったので、「たぶん」水が燃料棒にかかっているのでは、という評価にすぎない。

日本国内での報道と海外のそれとのギャップが大きいと書いたが、今日の読売オンライン版に「日本政府は危機感欠如、不信といら立ち募らす米」という、アメリカの反応を紹介した記事が載っている。中にはこんな記述が。

憂慮する科学者同盟」は17日、記者会見を開き、核専門家のエドウィン・ライマン博士が「日本は絶体絶命の試みを続けているが、もし失敗すれば、もう手だてはない」と指摘、放射性物質が大量に放出されて「100年以上にわたって立ち入れなくなる地域が出るだろう」との悲観的な見方を示した。

憂慮する科学者同盟」は基本的に核兵器原子力開発に批判的な市民・専門家からなるNGOではあるが、テレビは「まだ問題のある線量ではありません」というものばかりなので、こうした見解もきちんと伝えてほしい。成田に着陸することを拒み始めている海外の航空会社も出始めているのだ。それを「保守的な態度」という言葉で説明するような状況ではないと思う。

そんな中、テレビ朝日の「報道ステーション」を見たらば、石川迪夫が出演していた。彼は50年代からずっと日本の原子力開発推進に携わってきた人だ。
思い出すのは80年代半ばに反原発運動が高まった時、始まって間もない「朝まで生テレビ」で原発論争をした際、原電事業関係を代表するコメンテーターとして、いかに原電事業が安全なものか熱弁をふるっていた姿だ。今回のような事態を想定することがどんなに非現実的なものであるか、柔和に、弁舌も滑らかに、原発反対論者に対していた。35年を経た風貌の変化にも驚きつつ、途中からではあるが、番組を聞いた。
スリーマイル事故と福島原発との比較など、変わらぬ流暢さで語っていたが、加水した後に一時的に濃度が高まる放射性物質の特質がスリーマイル島事故と似通っていることに関し、「面白いことに」という表現を使い、古館にたしなめられていた。これはスリーマイルと似た状況ではあるが、チェルノブイリとは違う、ということを強調したかったからだろう。
驚いたのは、溶融した核燃料が圧力容器の底に集まり、再び臨界に達した場合、温度が圧力容器や格納容器の鋼鉄の融点を超えることで、核物質が容器を破壊する大事故に至る可能性があるが、その下の建屋の床のコンクリートの融点は2200度くらいと高いので、いわゆる「チャイナシンドローム」というような事態にはならないのではないか、と語っていたことだ。
すでに建屋は破壊されている。つまり、核燃料が原子炉の二重構造を貫く決定的な破壊が進んでも、溶融した燃料が地殻を貫くようなことはないかもしれない、という黒いジョークのような話なのだ。
さらにチェルノブイリ事故は火災により黒煙ととともに放射性物質が高く舞い上がったが、福島原発においては仮に再臨界に達した燃料から放射性物質が環境に放出されても、チェルノブイリほど広範囲に広がらないのではないかと、思う、という話。
かつて原子炉そのものが損壊するような事故などあり得ないと、微笑みながら語っていた人にして、このようなことを言わしめる状況に、改めて背筋が寒い思いをした。
さらに、現在試みられている電力供給による冷却系ポンプの回復の試みに対し、福島の原子炉は原子炉内部から直接タービンに蒸気が送られる仕組みになっていることから、ポンプが回復しても、タービンへの循環が回復しないと十分な効果は得られないかもしれないと冷静に語っていた。原電推進派のフロントに立っていた人にして、これは皮肉だが、構造を熟知した上での冷徹な見解だと思う。
ついでに思い出したのは、やはりその「朝まで生テレビ」で、西部邁氏が、自動車事故と原発事故を比較して、技術には一定の事故がつきものであり、本質的にかわりない、それをことさら論おうとするのは「チャイルディッシュ」であると、やや侮蔑を込めるようにして語った姿だ。彼は今この事態を前にしてどのように思うのか、言論を仕事にする人達にはそれなりに過去の発言に対して責任感をもって、あらためて今、語ってほしいと思う。