ペルー・ボリビア旅行15日目(最終日)

今日はリマからトランス・アメリカンハイウェイを北上し、北方約200キロの場所にあるカラル遺跡=Caralに行く。昨日のナスカ日帰りは3食車中、着いたら即、船や小型飛行機に乗る超特急ツアーだったので、かなりしんどかったが(運転手も一人で1000キロ運転し、最後は少しぼんやりしていたのでちょっと怖かった)、最後の日なので無理してでも行くことにした。

カラルはスーペ=supe川流域の谷に展開している神殿群で、発掘されたのは1994年と比較的新しい。
この地域は基本的に砂漠地帯だが(コスタと呼ばれる沿岸部のかなりの部分がそうなのだが)、こぶのように出た砂丘が多く、それらの多くは人為的に埋められ、さらに砂で覆われた遺跡群だった。
花崗岩の石積みによるピラミッド型神殿群、円形の何らかの儀式・祭礼のためのものとみられる施設、住居跡などが見つかり、建造物の基礎などに使われた萱の放射性炭素による年代測定の結果、最も古い部分で紀元前約3200年という数字が出、ペルーだけでなく、古代アメリカ史、また世界の古代史を書き換える発見となった。今、ユネスコ世界遺産になっている。

ペルー周辺のアンデス文明は、これまで(今回は行けなかったが)ペルー中北部の山岳地帯に栄えたチャビン文化の勃興をもってひとつのエポックとするというのが一般的な認識だったようだ。チャビンが発達するのは紀元前800年頃からで、博物館のパネルなどでも、そのような位置づけになっている。アンデス文明の「形成期」とされ、これより古いものはおおまかに文明の前段階的な扱いをされていたようだ、これまでも古いものでは紀元前2500程年前と測定された小規模な神殿跡の発掘などがあったが、土器などが出土していないことから、文明形成へのひとつの過渡的なものとしてとらえられていたようだ。
これがカラルの発見と年代の特定によって、「形成期」をさらに遡らせ、アンデス文明の黎明をもっと早い時期に設定すべきという考えが支持されるようになっている。そして周辺の遺跡の調査によってはさらに年代を遡る可能性がある。カラルはこの地域最大の建造物をもっているが、他にも多数未発掘のものがあり、カラルに先立つものが見つかる可能性が少なくない。





カラルの発見は文明形成の仕方に関する認識にも大きな修正を迫るものになった。集約的な農耕によって余剰食糧が生まれ、これが社会構造の階層化、成員の専門化などを促し、さらに集団同士の抗争などを通して大きな権力が生まれ、都市建設や宗教施設の建設に至るというものが一般的な文明発生のプロセスとおおまかに考えられてきたが、カラルでは土器すらみつかっておらず、経済的基盤や政治権力が整うより先に、先ず神殿の建設があり、それを通して次第に社会の構造が複雑化していったとみられている(これはカラルだけでなく、「形成期」に属するいくつかの遺跡に共通することのようだ)。このため、従来の文明観でははかりがたいところがあり、「形成期」初期の諸文化は明確に文明として位置づけることを保留されてきたところがあるようだ。さらに、戦争や武器などの痕跡もみつかっていないのも大きな特徴だという。
これまでに出土したのは、骨でできた笛、簡単な土偶、大人と子供の生け贄の遺骸、などだ。特権階級の墓なども、見つかっていないが、神殿横に小規模な住居があり、宗教的指導層の存在は伺わせるという。
インカで使用されていたヒモに結び目を作って伝達の手段とするキープの原形、「神の目」と呼ばれる、十字型に組んだ棒にひし形に糸を巻き付けた、アンデス文明を通してみられるシンボルと非常によく似たものなど、その後数千年にわたってペルー周辺で展開される諸文化のルーツともいえるものが見つかっているのも面白い。

神殿はモチェなどと同じく、定期的に古い神殿の上に新しいものを作る形で大きくされ、少なくとも千年近くの間、そこが都市として栄えていたことがわかっている。古い神殿の上に新しい神殿を造る際、萱で編んだ大きな網の袋に石を詰めた土嚢のようなものを埋め込んで補強している。この地域は地震も多いが、カラルは5000年以上も崩れずに残っている。同じ場所には後にチャンカイ文化によるレンガ造りの建造物も建てられているが、こちらは崩れ、ほぼ風化してしまっているのと対照的だ。
この場所は東のアマゾン地方、南北地域とも、高い山などを越えることなく比較的容易にアクセスでき、交易の要衝であったともみられている。地域には少なくとも 3000人くらいが住んでいたとみられているが、これだけ規模の大きな建造物を造るには3000人という数は少ない。ここが一種巡礼地のような機能を果たしていて、建造には地域外からも加わるものがいたとしても不思議ではない。
この遺跡が放棄された原因ははっきりとはわかっていないが、ペルーの他のほとんどの文化と同様、気候変動・地震などが原因とみられている。エルニーニョの極端な「スーパー・ニーニョ」が数度あったことが確認されていて、極端な降雨量の増加など、生活の基盤を脅かす気候変動があった可能性もあるようだ。文化の形が継承されている点、荒廃する前に人為的に葬られていることなどから、カラルにいた人の一部がどこか他の地に移動し、新しい文化の担い手になった可能性もあるだろう。
カラル遺跡はイメージしていたより、ずっと洗練された、技術的に高度な水準によって成し遂げられた都だった。

神殿前に置かれた石。人為的にさくさんの円形の窪みが彫られいて、ちょうど巨石時代のブリテン諸島でつくられた「カップマーク」みたいだ。この窪みもカップマークと同じで何か天体と関連があるのではないかと考える人がいるようだが、わからない。
カップマークだけでなく。「リングマーク」もあるし、スタンディング・ストーンもある!(しかも夏至の日の出の位置と神殿のひとつとを結ぶ線の上にあるらしい)。




カラルを見た後は少し北の海外barrancaで昼食をとる。リマで開催されたセビーチェ大会で優勝したことがある店だというが、セビーチェはやめておいて、普通の魚の焼いたものとフライをたのむ。
浜に出るとずんぐりして、殻の大きなちょっと原始的な印象があるエビの殻がたくさん打ち上げられている。鳥が食べた跡だろうか。サギの仲間がたくさん浜に来ていて、近くの畑にはサギが鈴なりになっている場所があった。

これで今回のペルー・ボリビア旅行はお終い。