アルゼンチン岩絵撮影行その6

いろいろあったLago Posadasを出て、北に向かう。西にアンデス山脈、東側はMonte Zeballosなどの山々が続く。チリとの国境はすぐ近くだ。
火山活動が生んだ岩峰と火山灰などの堆積物による地形が相まって、独特な景観を造り出している。
Monte Zeballosは玄武岩の塊のような岩山で先端の尖った独特な形をしている。標高2743メートルだ。手前にモニュメントバレーのビュート(孤立した丘)のような形の岩山がある。どこか最近出版した『奇岩の世界』で紹介したアルジェリア南部の景色にも通じるものがある。この道の景色は絶対に気に入ると思うよ、というクラウディオの言葉通り、見飽きない景観だ。



ふと、何かが道を横切った。アルマジロだ。大急ぎで車を降りておいかける。行き場を無くして、ピタっと止まった。甲羅の長さが20センチくらいだ。顔を草の中に入れていたので、もう少しよく見ようと草をどけたら、あっという間に逃げていった。なかなか足の力が強い。アルマジロは3日間泊まったエスタンシア・クエヴァ・デ・ラス・マニョスの周囲に結構いるから、と言われてはいたが、探して歩く気力がなかった。

火山灰が積もってできた丘に長い城壁のような岩が連なっている。人が積んだ石組みのように見えるが、自然に出来た形だ。溶岩流の外側が冷えて固まったものが残り、風化して長い壁のような形になったと考えられているようだ。さながらハドリアヌスの長城だ。


岩壁が天辺まで続いている山のひとつに登ってみた。玄武岩の岩壁はモザイク状にヒビが入っていて、これが風化して崩れ、周辺にはブロック状の岩塊が散らばっている。
さらには丸い滑らかなボール状の石があちこちにたくさん落ちている。これは火山灰の塊のようだ。上空でコンドルが数羽旋回している。
「何かの死骸があるのかな」
「僕らがどうかなるのを待ってるんだよ」
変化の少ない景色は距離感がつかみにくい。登り始めた山も思ったよりもずっと距離があった。



山の上にはひときわ高い「壁」の名残がそびえていた。下からは石柱ように見えたが、横から見るとまるで魚の背びれのようだ。面白い。



この山の隣には全体が火山灰の塊のような小山があり、奇妙な岩が突き出ている。ここも登ってみることにした。こちらの岩は玄武岩ではなく、凝灰岩だ。釣り鐘のような形、タジン鍋のような形と、奇岩をたっぷり楽しんだ。




さらに北上すると、アンデスからの雪解け水が流れる川に出た。かなり水量がある。周囲には木が生えていて、それまでの乾いた風景と一変する。これほど変化に富んだ景色が楽しめる道はないと、クラウディオも言っていた。
またアルマジロが道を横切った。再び急いで車を飛び出し、ひたすら追いかける。速い。転びながらようやく押さえたが、足の力がすごく逃げられてしまった。戦車のようだ。甲羅の長さが30センチほどもあるかなり大きなもので、毛がたくさん生えている種類だった。惜しい。草地に逃げ込む際、「グォグォ!」とうなっていた。「ふざけんなよ!」か「おぼえてろよ!」に違いない。

アルマジロは丸くボールのようになって身を守るのかと思っていたし、最近そんな動画をTwitterで見たのだが、クラウディオはそんな姿は見たことないという。そういえば動画はちょっとどこか作り物っぽかった。追いかけると土を掘って地中に逃げ込もうとするらしい。大きなものだと、掘るスピードも速く、穴に入りかけたアルマジロを引きずり出すのはかなり大変なのだそうだ。

さらに北上し、グラル・カレーラ湖畔のロス・アンティグオスに着く。観光地だ。レストランは音楽が大音響で流れ、「米ドルOK」と書かれた、バドワイザーを出す店が並んでいる。今朝までビールを空き瓶と交換でしか買えない町にいたのがうそのようだ。明日はチリに入って、ロス・アンティグオス湖の中の「大理石の聖堂」と呼ばれる岩を見に行く予定だ。湖に突き出た中が空洞になっている岩でマーブル模様のような流紋のある美しい岩だ。『奇岩の世界』で写真を探しているときに知った。

比較的うるさくないレストランに入って、サーモンのラビオリを食べていると、あ、いたいた、という感じで、クラウディオが店に入ってきた。
「明日だけど、たぶん岩を見ることはできないと思う」と。
天気予報によればかなり風が強く、彼の経験からしてまず舟がでないだろうと。船着き場まではかなりの距離があり、チリに入国しなくてはならない。何時間もかけて結局ダメとなったらがっかりすると思うよ、と。じゃあ、どうする? となって、いくつか提案してもらったが、谷歩きをするか、もう一度「手のひらの洞窟」に行くか、というようなことになり、朝までペンディングにしてもらった。楽しみにしていただけに残念だが仕方ない。ここに来ることはたぶん二度と無いだろう。
クラフトビールを売る店があったので、黒ビールと少し色の濃いビールを買って宿に戻った。

アルゼンチン岩絵撮影行その5

今日からクラウディオと共にさらにマイナーなエリアに入る。まず40号線をひたすら南下する。平坦なステップの平原をまっすぐな道が続く。「グアナコ飛び出し注意」の道路標識がおかしい。グアナコがはねられている所は見なかったが、ウサギはたくさん轢かれていた。ウサギはヨーロッパ人が持ち込んだ。

バホ・カラコレスの町で西へ曲がり、ラゴ・ポサーダスという湖近くのCerro de los Indiosという岩絵サイトに向かう。ひたすら平坦なステップの平原の向こうにアンデスの雪をいただいた山々が見えてきた。

Cerro de los Indiosは前日のAlero Charcamata以上にマイナーなサイトで、クラウディオは最初は地主が道を閉めているので見学できないと言っていた。だが、はじめに交渉していた別のツアー会社は「閉まっていても別の道があるから大丈夫」と言っていたので、クラウディオにその旨話すと、「別の道? 14年ここで仕事してるけど、そんな話は聞いたことがないな」と。
結局、彼が地主に連絡したところ、希望すれば門を開けてくれるとわかり、見学が可能になった。

Cerro de los Indiosは、岩山に通じる道は一本だけで、どう見ても「別ルート」なんてあるように見えなかった。ただ、一帯は平坦な土地なので、4WDであればいかようにでもアクセスはできるだろう。
「もしかして、別ルートってのは、道じゃないところを無断で通っていくっていうことなのかな」と私。
するとクラウディオが「あいつら、そんなことばっかやってるんだよ。困ったもんだ」と。これまで彼はそのツアー会社の名前を出すたびに苦笑いしていたが、なるほどいろいろとあるようだ。彼らのスケジュールではCueva de las ManosとAlero Charcamataを同じ日に訪れることになっていた。この二日間でそれぞれ丸一日かかったものを一日に押し込むという話で、おそらくまともに写真を撮る時間もなかっただろう。私としてはそこではなく、クラウディオに頼んで正解だった。


見学に行く前、地主の家に寄る。Lago Posadasはごく小さな町だ。地主といってもごく質素な家に住んでいる。大牧場主といった趣はない。道をはさんで朽ちた古い荘園の門柱のようなものが見える。おそらく、羊毛産業が下火になってから経営権を買い取ったのではないだろうか。宿もやっているのだが、訪れる観光客も少ないので、クラウディオはとっくに廃業したと思っていたようだ。今夜はここに泊まる。
岩絵サイトへの道についてきくと、女主人が「誰も来ないから閉めることにしたのよ。いたずらされても困るしね」という。今日は珍しく考古学者が調査に来ているらしい。
今日は夕飯は何がいい? 何時頃食べる?と女主人とやりとりし、8時にピザということになって出発。



Cerro de los Indiosの岩絵は大きな火山岩頸のような岩山の外壁に描かれたものだ。Cueva de las Manos やAlero Charcamataよりもずっと年代が下ってからのもののようだ。あまり鮮明に残っているものがない。大きな渦巻きとその周囲に丸が連なっている独特なシンボルマークが描かれている。何を意味しているかもちろん全くわかっていない。
髭面の男性の考古学者と彼の教え子らしき若い女性が調査していた。壁画の絵の記録をしている。小さなドットで描かれた部分があるが、彼らはその点を数えている(!) 学者ってこういうものなのね、と再認識した。




Cerro de los Indiosの岩は表面が滑らかなものが多い。粗い線刻もある。




岩絵の撮影が終わり、時間が余ったので、明日に予定していたLago Posadasの湖に行ってみようかということになった。チリ領まで続いている大きな湖の南端が細い堤程度の陸地で区切られていて、その端の部分をLago Posadasと呼んでいるのだ。中に独特な岩のアーチがあることで知られているので、それを見に行こうかと。

湖畔に至るオフロードをしばらく走ったところで、クラウディオが車を停め、窓から顔を出して「うそだろ....」と。
「どうしたの?」
「broken」
壊れた? 車軸が曲がってしまったとか?? 
見るとパンクしている。
パンクか....もちろんスペアタイヤはあるのね。
風が激しく、もうもうと土ぼこりが舞う。タイヤ交換するには最悪な環境だ。
「直してるから歩いて湖まで行ってくれ、後で迎えに行くから」というので、そのとおりにすることに。

湖は光があたるとセルリアン・ブルーのような明るい色になる。岩のアーチもなかなか面白い。写真をあれこれ撮って随分と待ったが、彼は現れない。パンク修理にしては時間がかかりすぎだ。再び歩いて戻ってみると彼はいなかった。タイヤもジャッキアップした状態でそのままだ。
どういうことかとしばらくなす術なく立っていると遠くから彼が歩いてきた。聞けば、タイヤのボルトの一本が頭が丸くなってしまっていて回らないのだと。あれこれ試したが、どうにもならない。4つタイヤがあって、ボルトがこんなになってるのはこのタイヤだけなんだ、なんて運が悪いんだ、と。
幹線道路まで戻って、通りかかった車に、宿の主人に事情を伝えてもらうように頼んできたが、いつどうなるかわからない、もしかすると今夜はここで夜を明かさなくちゃならないかもしれないから、君は先に車を拾って宿に帰ってくれ、と。

彼と一緒に幹線道路まで再び歩くとちょうど車が通りかかった。ほとんど車通りの無い道なので、これは運がいい。30代半ばくらいの女性ドライバーに彼が事情を説明する。この日本人をこういう名前の宿まで送ってくれないかと。長々話しているが、なかなか終わらない。これは、「そんなこと頼まれても困るわ。急いでるのよ」というのを説得してる感じかなと思ったが、結局、OKとなって宿まで送ってもらった。後でクラウディオに聞いたが、彼女は嫌がっていたわけではないようだ。Cueva de las Manosのボスに私をもう一度入れて欲しいと頼んでいたときも長々と話をしていた。そうやってある程度の時間言葉を交わすことが人付き合いとして必要なのだろう。日本だったら、「いいよ」「いや、ちょっとそれは困る」で終わってしまいそうなやり取りなのだが。

宿に戻ると、女主人はすでに事情を知っていて、救援を出したから大丈夫、と。よかった。下手したら明日からの予定もおかしくなるところだった。
咽がからからで、ビールが飲みたかったが、宿には無い。自分で買いに行くから店を教えて、と頼むと、ざっくりした地図を書いてくれた。そして、ビールの空き瓶をひとつ布袋に入れて、これを店で出して交換してもらうといいわ、というジェスチャー
スペイン語話せないけど、セルベッサ(ビール)くらいは言えるから、空き瓶見せなくても大丈夫なんだけど、と思ったが、言われた通り瓶を持って出る。

女主人が書いた場所に店はなかった。どういうことなのか。うろうろしているとビールの空き瓶がたくさん置いてある店を見つける。誰もいない。しばらく「ごめんくださーい!」と大声で言っていると大きな男が。ビールは売っていない、あそこにある店で買え、と。女主人が書いた地図の場所の裏手だった。
店に入り冷えたビールをレジに持っていき、「ください」と言うと、「ダメ」と。
ダメ? どういうこと? 言葉が通じないと知って、若い店員が「英語?」と言いつつスマホの翻訳画面を差し出した。
「ビールは交換でしか売れない」。
なるほど、それでこの空き瓶を持たせたのか、と袋から出すと、OK、OKと。どういうシステムなのかしら。瓶代があるにしても、ダメというのは。

宿に戻ると、女主人が「ちょっと、あなたどうしてこんなに時間かかったの?」と。地図がねぇ...。
ビールを飲みながら、つまみで出てきた落花生をちびちび食べる。クラウディオには自分にかまわず夕飯を食べててとは言われたが、どうもそういう気にもなれない。
女主人が「あぁ、クラウディオ、遅いわね....」と言った途端、裏口が開いて彼が戻ってきた。フリーサイズの力の強いレンチを持ってきてもらってあっさり解決したと。
「先週まで同じレンチを積んでたんだ、先週まで! ちょうど人に貸してたんだよ。なんて運が悪いんだ」と。なんにしても、無事直ってよかった。

ピザを食べながら、クラウディオが静かに「僕は本当はこういうものは食べないんだ」と。数年前に肉と乳製品を食べない食生活に変えたのだという。真冬のオフシーズンは時間があるからいろいろ本を読んで勉強して、何が体に悪いか理解したのだという。特に砂糖は最悪だと。
「パンにも砂糖が入っているし、ジュースにもたっぷり入っている。これは一種の中毒なんだ。数年かけてそういうものを受けつけない体になったから、食べても後で吐いてしまうことが多いんだ」と。
ベジタリアンだったのか。ちょっとそんな雰囲気があるなとは思っていたが。
たんぱく質は? 豆でとってるの?」と聞くと、「beanって何?」と。どうも豆も食べていないようだ。彼は痩せてはいるが、二の腕など結構筋肉がある。私はベジタリアンの知識は乏しいが豆など食べずに野菜だけでやっていくのは結構大変なんじゃないだろうか。

話が進み、単なるベジタリアンという感じを超えるニュアンスが出てきた。
アメリカ人とか異様に太った人がいるだろ? 最近アルゼンチンにも増えてるけど。あんな体形の人はどう考えても不自然なんだよ。悪い食事をしている現代人には体内に寄生虫(細菌?)がたくさんいて、それが脳にはたらきかけて、「もっと、もっと砂糖を!」と指令するんだ、というような話に、ちょっと、んん? となったが、彼は食生活を変えてから体調的にも精神的にも非常に調子がいいというのだから、結構なことだ。アルコールは一度止めたけど、今は飲んでいるらしい。
私はパタゴニアに来てからこの日まで夕食を一度も注文していなかった。昼ご飯の余りを食べて夕飯はビールだけだ。それが、どうも「こいつは粗食で、抑制がきいているな」と彼に思わせたようで、清涼飲料水は毒、乳製品も毒、というような話を気を許して話したようだった。単に白人よりも胃袋が小さいだけなんだが。それに、そういう話はマクロビオティックをやっていた友達や本の企画で、少し慣れているところがある。

この日はこちらの希望としては、古い荘園の建物を改築した雰囲気のある宿に泊まりたいというものだったが、岩絵への道を開けてもらうこともあり、こちらの宿に泊まる方がいいというクラウディオの判断だった。女主人もその息子もとても感じの良い人たちだった。

アルゼンチン岩絵撮影行その4

今日も朝4時過ぎに目が覚めた。アルゼンチンの朝食は質素だ。ブラジルと比べると食文化が全く違うことがわかる。ブラジルのホテルはずらっと料理が並んでいた。パンも、トーストから甘いものまで数種類あったし、マニオックも必ず出ていた。ここはトーストとコーヒー、オレンジジュース、ヨーグルトドリンクのみ、フルーツも無い。あってもハムとチーズくらいだ。卵も食べないようだ。いわゆる「コンチネンタル」なんだろうか(ヨーロッパ大陸を旅してないのでよくわからないが)。
クラウディオに「朝はあまり食べないんだね」と言うと、日本ではどんな朝食なんだ?と。だいたい説明すると、「それって昼食みたいだな」と。そうかしら。そのかわり晩ご飯はたっぷり食べるようで、しかも時間が遅い。早くても8時過ぎ、11時頃まで食べている。クラウディオによれば、「みんな、夜なにを食べるかばかり考えている」のだと。それもあって、朝はあっさりなんだろう。ランチは3時頃に食べる。私は夕方に重いランチを出されて、それが全部食べきれないものだから、夕飯はランチの残りものとビールだけで済ませている。結局、帰るまで「これがアルゼンチン料理」というものを食べずじまいだった。

今日はCueva de las Manosの北にあるAlero Charcamataの別の壁画サイトに行く。Cueva de las Manosは観光客も多く訪れるが、こちらはほとんど行く人もいないという。ガイドは昨日と同じトニーだ。
「今日は他の写真家たちといっしょだから、好きなだけ写真撮影に時間がとれるぞ」と。アルゼンチンの写真同好会のベテラン男性メンバー3人といっしょだ。うち一人と話をしたが、「25年前にはCueva de las Manosには全然人がいなかった。管理人はたった一人だった」と。ブルース・チャトウィンが写真を撮ったのは70年代前半だと思うが、おそらくその頃は通路もフェンスもなかったのではないだろうか。

後でわかったが、写真を撮る人だけが集まっていると、そうでない人を待たせることを気にする必要がないのはいいのだが、それぞれが自分が好きな場所で好きなように撮ろうとするので、「ちょっと停まって」とか、「あ、ちょっと横にどいてくれる?」とか、ばらばらに言い合うことになり、または同じ場所で順番に撮影することになり、なかなか先に進まない。私は壁画の写真以外にはそれほど熱心ではないので、「皆さん、そんなに撮ります?」という感じだった。

目的の谷までの風景が素晴らしかった。岩山はどこかアメリカの南西部のような趣がある。モニュメントバレーのような、天辺が水平な岩山もある。
谷底に降りると小屋があった。牧童が一人で住んでいるのだ。このエリアの牧場経営はすっかりすたれてしまったので、今ではごく少数の牧童=ガウチョがいるだけだ。もともと、最初にパタゴニアを広大な羊牧場にしたのがイギリス、オランダ系の入植者だった。彼らは先住民から土地を奪い、何万という羊を飼って大金持ちになったが、その後、羊毛の価格が下がり、羊毛業はすたれていく。これにとどめを刺したのが1991年のチリのハドソン山の噴火で、火山灰が広範囲に降り注ぎ、草地を覆い、大量の羊が死んだ。今は羊を飼っている牧場は少ない。谷底の牧場も牛が少し、馬が少しいるだけだった。ここに来て牛などを見かけることがほとんどないのだが、これで牧場として成り立っているのか不思議だ。いかに広いといってももう少しいてもいいはずだろうと。



奇岩の多いエリアに入り、車を降りて、谷を歩いていく。途中小さなシェルターがあり、壁画も少しあった。堆積物で洞窟が埋まってしまっている所もある。ブラジルのカピバラ渓谷でもそうだったが、掘れば下から出てくる可能性はあるだろう。
シェルターにはピューマらしき絵もあった。






Alero Charcamataのシェルターは深く、規模も大きい。これなら数家族が暮らせただろう。壁画はCueva de las Manosと同じような様式の手形とグアナコの絵、そしてシンボルマークだ。Cueva de las Manosよりも少し時代が下った時期のものと考えられているようだ。7000年前頃という説明もある。グアナコの絵には動きがなく、妊娠している雌や、子どもを連れている姿などが多いのが特徴で、これは何らかの事情でグアナコの数が減り、多産を祈願して描いたものではないかという説があるようだ。羊を大量に殺したチリの火山噴火と同じで、大昔の火山噴火によるものだったかもしれない。

壁面の手形の中に、QAというアルファベットを丸で囲んだものがかかれている。これはかつてここで一人で暮らしていたガウチョが、この場所を去って別の谷に移る際、自分がここにいたという印として自らのイニシャルを残したものなのだという。彼の「家」の名残である石組みが少し残っていた。数千年前にはここに数家族が身を寄せあって、厳しい冬を越していただろう。ガウチョはたった一人で暮らし、数千年前の先住者の絵の横に自らの記録を残したのだ。







グアナコの群れをいくつか見ながら宿に戻る。グアナコはまつげが長くてどこか手塚治虫風。


帰り道、トニーがちょっと古めのソウルをかけていた。パタゴニアの乾ききった景色とかなりウェットな感じのソウルというなんとも妙なとりあわせ。
今夜でエスタンシア・クエヴァ・デ・ラス・マニョスの宿泊も終わり。遠くからみるといかに荒野の真ん中にぽつんと建っているかわかる。

アルゼンチン岩絵撮影行その3

朝4時台に目が覚め、その後なかなか眠れなかったため、暗闇の中で延々と時間をもてあますことになった。電気がないので本も読めない。東京と時差は12時間。真裏だ。
夜は9時過ぎまで明るいのに、日の出は7時くらいというのが、ちょっとバランスがおかしい。そもそもアルゼンチン全体がブラジルの最東部と同じ時間帯にあるというのは無理がある。ここはエリアの西の端なので、ブラジル東部とは正味1時間以上のズレがあるんではないだろうか。日の出が6時、日没が7時半くらいと考えれば納得がいく。
明るくなって、宿の外に出てみると昼間見なかった馬が数頭いる。牧場の馬ではなく、野生化したもののようだ。

今日は旅の最大の目的であるCueva de las Manos=手のひらの洞窟に行く日だ。ここまで遠かった。
朝10時半に他のツアー客と一緒に宿を出る。宿にはスイス人の夫婦がいたが、今日は皆、アルゼンチン人のようだ。今日のガイドであるトニーからクラウディオの手紙を受け取った。「今日は他の客との一般的なツアーに参加してもらうけど、壁画の場所ではトニーと一緒に別行動してもらうように計らってもらうので、一般客よりも長く撮影の時間がとれるはず。心配なく」とのこと。よくわからないが、成り行きにまかせるしかない。

まず、宿の近くの「色の谷」に寄る。パステル調のピンク味を帯びた赤、硫黄を含む明るい黄色の土が露出している場所だ。壁画に黄土、赤土は欠かせないが、黄色がとても明るく彩度が高いことに驚く。明るい赤と混ぜればオレンジ色になる。これらの色のついた土を獣脂などと混ぜ合わせて壁画の顔料にしたのだ。この地層は昨日訪れた「化石の森」の遠くに見えた色づいた山と同じ時代のものだ。


さらに40号線を南下する。まっすぐ南下してパタゴニア最大の観光地エル・カラファテまで続いている道だ。しばらくしてCueva de las Manosへの枝道に入る。砂利道が延々と続く。これは地図で見た距離の印象よりもはるかに時間がかかる。ペリート・モレーノの町から距離でいうとそれほど遠くないのに、ツアーが丸一日かかるというのも納得がいった。

途中、谷の手前で車を停めて、ここから谷= Rio Pinturas (絵の川)に降りて歩く。Cueva de las Manosはこの Rio Pinturasとセットでユネスコ世界遺産に認定されている。トニーが「ヒディ、歩く?」というので、ここに来て歩かないという選択肢があるのか?と思ったが、ツアー客の大半は歩かずにそのまま壁画サイトに車で向かうらしい。
トニーはあまり英語は上手くないので、言葉が少なくどういう行程なのかよくわからないのだが、ともかく行ってみよう。

谷に降りるとわずかに水があり、野菊やアザミが咲いていて、平地とはかなり趣が異なる。雪解け水が流れてくる春先にはもっと水量が多いはずだ。刺のある植物が多い。カラファテという青い実のなる低木が生えているが、実は濃厚な甘さがあっておいしい。ブルーベリーくらいの大きさで、干しぶどうのような味だ。「カラファテの実を味わった者は皆、もっと食べたくなって引き返す」と言うらしい。種が多いのが難点だが。リンゴなどの木も生えているが、これはヨーロッパ人が持ち込んだものらしい。荘園などに植えていたものが、種が運ばれて川沿いで育っていったものだ。




野生化した馬が数頭で歩いている。からからに乾いた平原と比べ、潤いのある景色だ。谷の両側は切り立った火山岩の岩壁が迫っている。この地形は1億5千年前、ジュラ紀の火山噴火によるものだ。岩絵のある場所も高い岩壁の中腹に開いた洞窟だ。谷底から88メートルの高さにある。


谷底から壁画の入り口まで急坂を一気に登ると、すぐに壁画見学ツアーの開始。ハイシーズンなのでグループごとに1時間ほどのガイドツアーが割り当てられている。なんとか多く時間をとってほしい。トニーが職員に話をした後、きまり悪そうに言うには、やはり単独で動くのはちょっと難しいので、なんとか急いで写真を....。とのこと。それだけはなんとかしてとずっと頼んでいたし、クラウディオも何とかなると言っていたのに、困った。が、ともかく行くしかない。

切り立った岸壁沿いに作られた細い歩道を進み、いくつかの岩絵スポットをめぐる。絵のあるエリアの全長は600メートルほどだ。
ルートの最初にある、最も大きな洞窟は深さ24メートル、高さ10メートル、幅15メートルだ。ここの手形は美しい。洞窟の入り口右手の、岩塊が崩落した跡のような窪みいっぱいにステンシルの手形がついている。色がとても9000年も前のものとは思えないほど鮮やかだ。また、重なり具合がなんともバランスよく、手のひらが踊っているような不思議な躍動感がある。洞窟の壁一面に手形が押してあるというと、生々しいというか、どこかホラー映画のようなイメージを抱く人が多いようで、今回も行く前に話すと、たいていの人は「怖いですね」という反応だったが、そんな印象は全くない。ここの手形はどこか優雅なのだ。





手のひらのモチーフ以外はほぼグアナコの絵だ。群れで走っている。投石で倒す場面がある。この時代は弓は使っていなかったのだろうか。ブラジルのカピバラ渓谷の岩絵にはさまざまな種類の鹿や巨大アルマジロが狩猟の対象として描かれていたが、絵を見るかぎり、狩りの対象はほぼグアナコに限られていたようだ。パタゴニアにも生息していた巨大アルマジロナマケモノはもう絶滅した後なのだ。
この洞窟が利用されていたのは、ユネスコのサイトには年代は9300年前頃から1300年前頃とある。ヨーロッパ人が到来したときにパタゴニアに住んでいたテウェルチェ族、さらにはセルクナム族の祖先だろうと考えられているが、はっきりしたことはわからないようだ。岩絵の大部分は最も古い時代のものであるように考えられている。渦巻き模様とジグザグ模様などもあるが、これは比較的新しい部類に入るらしい。そうしたシンボルは少ない。ほぼ、手のひらとグアナコとそれを狩る人間の絵だ。






壁画を初めて写真撮影し、紹介したのはサレジオ会の伝道師ディアゴスティーニだそうだ。この名前は昨年編集した『ハイン 地の果ての祭典』で何度も目にしてきた。1920年代のことだ。彼は登山家であり、探検家だった。その後ずいぶんと時間が経って、1970年代に初めて本格的な考古学的な調査が行われたという。

見ごたえがあった。が、グループツアーは10人以上でまとまって動くし、さっさと進んでしまうので、写真を撮る時間はとても短い。少し遅れて写真を撮っていると説明を聞く余裕もなく、ガイドの女性が「ちょっと聞く気ないの?あんた」という顔をしていて辛い。また、岩絵の場所は高いフェンスに囲まれていて、下の方はフェンス越しにしか見えないというおかしな設備になっている。昔は一日に来る人がいるかいないか、という程度だったので、見学者をフェンスの中に入れていたらしいのだが、世界遺産になって来訪者が急増したので中に入れられなくなった。ハイシーズンには日に300人ほどの見学者がいる。ガイド付きでないと入れないように厳重に管理しているのだから、もうこんなに高いフェンスは必要ないはずなのだが、要するにフェンスを作り直す予算がないのだろう。
仕方ないので、グループの最後に遅れてついていって、最後は帰り道で人がいなくなったところで撮影しようと思ったが、トニーがなにかと「ヒデ、もう戻らないと」とせっつく。
どうも皆でランチ(といってももう4時半なのだが)をとるので、ということらしいが、私の分は置いておいてくれればよかったのだが。

結局、大慌てで写真を撮ることになり、普通のグループツアーと全く同じ条件になってしまった。これでは何のために事前に何度も連絡をとってきたかわからない。
撮った写真を見返すと、手のひらをアップで撮影したものが全く無いことに気付いた。これは痛い。
落胆しているとクラウディオが迎えに来た。「後は何か希望は?」というので、壁画の撮影が全然時間なかった。なんとかもう一度入りたいと言うと、「うーん、難しいかも」と。グループツアーに参加する中、私はトニーと別行動にして、昼食なども他の人たちは先に済ませてもらうようにということが、肝心のトニーにきちんと伝わっていなかったようだ。
「10分、10分でいいから。最初の洞窟だけでいいから」と、食い下がると、「頼んでみよう。うちのオフィスはいつもスタッフにたくさん差し入れしているし、今日もいろいろ持って来た。あれこれ世話しているからダメとは言わんだろう」と。
クラウディオが女性スタッフに「あのさ、この人をもう少しだけ連れて入りたいんだよ」と言うと、「私にはいいと言えないからボスに話してくれない?」と。結局、責任者と建物の裏でちょっと長めに話をした後で、「大丈夫、行けるよ」と。良かった。大慌てで撮影しなくてはならなかったので、後で見直して、最初の洞窟の手のひらのアップを撮っていなかったことに気づいたのだ。本当は全行程歩き直しておきたかったが、さすがにそこまでは頼めなかった。が、なんとかこれならいいだろう、というところはクリアできた。
最後にクラウディオが来てくれて本当に助かった。でないと、はるばる地球の裏側から来て、わずか1時間強ほどしか滞在できなかったことになる。できれば3時間くらいはいたいところだ。



撮影が終わるとほぼ同時に強い風が吹いてきた。パタゴニアの最大の特徴は強い風なんだとクラウディオが言っていたが、なるほどちょっとよろけそうになるほどだ。事務所の外で再び責任者とクラウディオが話している。雰囲気的には「あんただから認めたけれど、今回は特別だ。まあ、いつもいろいろ世話になっているからな」という感じのことを言っている雰囲気。クラウディオは借りをつくる形になったかもしれない。丘の上から谷を見下ろして、宿に戻って、シャワーを浴び、ビールを飲んでぐったり。時差ボケがきつい。
風がどんどん強くなる。一晩中、台風が直撃したときのような凄まじい風だったが、夜明けと共にピタリと止んだ。

アルゼンチン岩絵撮影行その2

朝8時20分の飛行機で2時間強かけて大西洋岸の地方都市コモドーロ・リバダビアに。チュブ州の最南の都市だ。
空港にクラウディオが迎えにきていた。ペリート・モレーノという小さな町にあるツアー会社のオーナーで、彼とメールやFacebookでやりとりしてきた。
「君のことは全部分かってるから」と、少し意味深な表情。無理な注文をあれこれして、返事の催促もずいぶんとしてきたから、ちょっと面倒な客だなと思っているに違いない。

そもそもアルゼンチン行きを決めるのが遅すぎた。航空券も1月に入ってからとったので、国内便の安いチケットなども終わっていた。
さらに、行く場所がなかなか決まらなかった。最初はパタゴニア観光のメッカであるエル・カラファテの氷河なども見たいと思い、Cueva de las Manosからずっと南に下って、そこから帰路につく、あるいはその逆で考えていた。Cueva de las Manosとエル・カラファテは500キロほどの距離だ。6-7時間もあれば着くだろうと思っていた。場合によっては自分で運転してもいいかなと。だが、よくよく調べると、一部未舗装の場所などもあり、夜行バスで12時間かかることが判明。それに、肝心のCueva de las Manos周辺の岩絵サイトを見て回るのに何日必要かなかなかわからなかった。Cueva de las Manosはアクセスも容易なので、自分でレンタカーなどで行くこともできるが、周辺にあるマイナーな岩絵のサイトは場所を記したものが何もない。案内してもらうしかないのだ。それに、Cueva de las Manosはハイ・シーズンはグループツアーだけなので、なんとか少し長く時間をとる方法がないか考えていた。最初に相談していたツアー会社は、はじめはOK、OK、希望通りにできるといい返事だったのだが、連絡が途切れがちになり、話もどんどんおかしくなっていった。そこで、見切りをつけて、かなりぎりぎりになってクラウディオの会社に乗り換えたのだ。
彼が組んだスケジュールでは、とてもエル・カラファテなどに回る余裕はない。「他のツアー会社から提案されたプランでは、もう少し効率のいい日程だったけど」と連絡すると、「そんなわけにいかないんだ」と。結局、彼を信用することにして、今回はCueva de las Manos周辺に限ることにした。はるばるパタゴニアに行って、氷河を見ないで帰る観光客は少ないだろう。自分でもどうなのかと思う。

コモドーロ・リバダビアからさらに6-7時間ほど車に乗り、チュブ州最南部を西に向かう。
コモドーロ・リバダビア周辺は油田地帯だ。ごく小さな採掘機がたくさん動いている。面白いことに山の中腹にも採掘場がある。完全に石油で成り立っている町なのだ。
出発前に町で果物やパンを買った。昼食だ。「何でも食べたいものを買って」とクラウディオ。彼は細身の、声も小さな、穏やかな男だ。40歳くらいだろうか。
「僕は都会はあまり好きじゃないんだ」と小さな声で言う。コモドーロ・リバダビアは都会というほど大きくもないし、人も多くはないんだが。
果物は日本でも見慣れたものばかりだった。プラム、ソルダム、ネクタリン、リンゴ、バナナ。


途中、サルミエントという町のすぐ南にある「化石の森」に寄る。珪化木が点在している場所だ。深く浸食された地形がなかなか面白い。露になった山肌は、堆積層に含まれるミネラルの違いによって、カラフルな縞模様を見せている。谷底(立ち入れないが)は白っぽい土が積もった柔らかい起伏のある地形で、「月の谷」とよばれている。
南米には「月の谷」がたくさんある。ボリビア、チリのアタカマ砂漠、アルゼンチンではイシワラスト国立公園の丸いコンクリーションがある場所が「月の谷」と呼ばれているが、ここは知らなかった。太古の川を流れて来て堆積した丸石がごろごろしている。火山岩や堆積岩やいろんなタイプの石があり、みな表面が滑らかに磨かれている。真っ黒い玄武岩が美しい。糸魚川の薬石風の「風景石」もある。




珪化木は約1億2千年前のものだという。パタゴニアの「化石の森」というと、コモドーロ・リバダビアの南、大西洋に近い場所にもっと大規模なものがある。そこの珪化木は12億年前のものらしい。
化石の森があるサルミエントという町の近くには瑪瑙が取れる場所があるらしい。出発前、パタゴニアのメノウを市場に初めて持ち込んだリカルド・バーニーが、ずっと前にパタゴニアのメノウの産地にマーキングした地図を送ってくれたのを思い出した。開いてみると、今回行くルートの近くにいくつかマークしてあるが、サルミエントにも印がついている。出発前に彼に尋ねたが、今は地主が立ち入りを許可していないから採取はできないのだそうだ。羊を盗んだやつがいて、それがメノウを取りに来た者の仕業だと思っているのだと。それに、入れたとしても大した瑪瑙はないという話だった。彼の瑪瑙の産地についての情報は嘘がたくさん含まれているので本当かどうかわからないが。
「近くにメノウが採れる場所があるって、聞いたことある? 地図で見ると今回のルートの近くにいくつかそれらしいものがあるんだけど」とクラウディオに言うと、知らないな、と。そしてしばらくして、「地図で近くに見えても、実際はそうでもなからね。パタゴニアは広いんだよ。今回のスケジュールに寄り道する余裕は一切無いから。」と。はい、おっしゃる通りです。

さらに数時間かけてペリート・モレーノの町に着く。Cueva de las Manosのツアーはここを起点にする場合が多い。ペリート・モレーノという地名は、もっと南のペリート・モレーノ氷河と混同されることが多く、紛らわしいのだが、ごくごく小さな町だ。が、町外れに金と銀の鉱山があり、この鉱山の敷地の中には数千人の労働者がいて、通信などのインフラも町よりもずっと近代的なものがあるらしい。

さらに1時間ほど車に乗って、Cueva de las Manosの北にある宿エスタンシア・クエバ・デ・ラス・マニョスに。広大な牧場の中に一軒だけぽつんと建っている宿だ。昔は地主が経営していたようだが、十数年前にクラウディオの会社が借りて運営するようになり、現在は国立公園の一部になったため、国に賃貸料を払っているようだ。
周囲数十キロ四方、民家は無い。インターネットもテレビも無い。さらには夜10時頃から朝10時頃まで電気が消える。充電が必要なものばかり持ち歩いている者にとってはちょっと困ったことになるし、眠れないと暗闇の中で何もすることがない。町に泊まるより趣があるだろう、夜は星がきれいなのではと思ったのだが、疲れてそれどころではなかった。


アルゼンチン岩絵撮影行その1

アルゼンチン、パタゴニアサンタクルス州にある約9000年前の岩絵サイト、Cueva de las Manos=手のひらの洞窟とその周辺を巡る旅に出た。

2月10日、成田を午後7時過ぎに出発して、ニューヨーク経由でブエノスアイレスに翌午前11時頃着く。ニューヨークまで12時間、トランジットが3時間半、ブエノスアイレスまで11時間の、延べ26時間以上かかってさすがに披露困憊した。ニューヨークはこの冬大寒波で水道管が破裂、空港内が水浸しになるなど、トラブルがあったので、遅れや欠航が心配だったが、運良く気温が高めのサイクルに入っていた。水浸しの痕跡も無いように見える。
本当はなにかと感じの悪いアメリカの入国を避けて、ニュージーランド経由で行きたかったのだが、決めるのが遅すぎてもうチケットが無かった。ただ、昨年メキシコに行った時のロサンゼルス空港もそうだったが、最近、アメリカの入国審査は、ESTAでの入国経験者は機械での自動手続きを使って簡略化しているので以前よりもストレスがなくなっている。ニューヨークで一度荷物を受け取らねばならないのは煩瑣だったが。

ブエノスアイレスで、ホテルに早めにチェックインさせてもらい、ダウンタウンのボカ地区に行ってみる。今日は日曜で地元のサッカースタジアムでボカ・ジュニアーズの試合があるから、行くなら明日にした方がいいとホテルのフロントが。スタジアム周辺は結構な騒ぎになるからということのようだ。だが、明日はブエノスアイレスにいないので、タクシーで早めに行くことにした。
ボカ地区はカラフルな家並みが有名な観光スポットで、小さなエリアが観光客でいっぱいだ。大きなツアーバスも何台も停まっている。中国人観光客が多い。
土産物屋とレストラン、カフェばかりだが、楽しめた。バルコニーや窓に人形がたくさん置いてあるが、タンゴの人形にサッカーのキャラクターが混じっているのが地元らしい。マラドーナの人形もある。
カフェでビールと(なぜか)ハンバーガーを頼んでゆっくりした後、歩いてホテルに戻る。スタジアム周辺では警官と救急車があちこちに待機していた。試合開始はまだ数時間後なのだが、爆竹を鳴らすサポーターもいる。「ボカ共和国」の壁画が印象的だった。「ボカ共和国」といえば、戦後民間出身のアルゼンチン大使になった津田正夫の本のタイトルだ。彼は戦時中、アルゼンチンに通信社員として駐在し、アルゼンチンが参戦するとスパイ容疑で留置される。あやうくティエラ・デル・フエゴの悪名高い刑務所に送られるところだった。彼の『火の国パタゴニア』は、ティエラ・デル・フエゴ旅行記で、先住民迫害にも言及していて、なかなか読後感が良かった。出発前に読んでおけばよかった。





途中、骨董屋が並ぶ路地があり、延々と骨董・古物などの露店市になっていた。毎日曜に開かれるらしい。古本屋も出ている。石を売っている店もいくつかあったが、見たところ地元のものはロードクロサイトくらいのようだ。コンドル・アゲートなどは全く売っていない。青っぽい玉髄もあるが、地元のものなのかわからない。民芸品はこれといったものはない。皮製品は特産なのかもしれないが。なぜかメキシコ風の骸骨の置物なども売っている。

ボカ地区のレストランは生演奏やタンゴダンサーがいる店が多かった。古物市の路地や公園で演奏している人たちも多いが、皆とても上手い。昼食をとった店も60代くらいの男性シンガーだったが、ギターも歌もとても良かった。ピアソラの曲をガットギターで弾いている人もいる。タンゴは観光客向けなのだろうが、フォークギター、エレキベース、ヴァイオリンという珍しい編成で演奏していたバンドが印象的だった。タンゴではないが、トラッド風の曲をやっていた。







アルゼンチンは20世紀初頭、ヨーロッパ主要国に並ぶほどの経済的地位にあり、ブエノスアイレスは南米のパリと呼ばれた。なるほど町には重工で豪奢な建造物がたくさんある。メトロポリタン大聖堂に入った。ファサードパルテノン神殿みたいだ。中に入ると建築の豪華さがわかる。床は延々と時計草の花をあしらったモザイクタイルだ。聖堂正面の紋章が血塗られたようにいたずらされていた。高い位置にある紋章だし、塗り方も上手い。そのままになっているところを見ると、最近やられたものだろう。

公園に中型の緑色のインコがたくさん飛んでいた。
疲れたので、早々に宿に戻る。テレビはサッカーばかりで、例の「ゴーーーール!!」を連発している。




アルゼンチン岩絵撮影行

明日からアルゼンチン、サンタクルス州に約8000年前まで遡る先住民の岩絵を撮影に行く。Cueva de las Manos(手のひらの洞窟)と呼ばれる、無数の手形が押されている半洞窟。ユネスコ世界遺産にも登録されているが、非常に行きにくい場所にあるため、訪れる旅行者はそれほど多くない。今回、パタゴニア観光のメッカである氷河なども見ようかと思ったが、交通の便が悪く、周遊コースを考えるにはちょっと時間が足りなかった。三つの岩絵サイトと奇岩を見て帰る予定。