アルジェリア、タッシリ・ナジェール岩絵撮影行・その4


朝、日の出前に車に乗り、昨日の夕方訪れた牛の線刻画のあるMarka Ouandiに向かう。朝日がいい具合に絵にあたるのではと期待したが、日の出の方角は全く期待外れだった。絵の彫ってある岩山は大きく、完全に日差しが遮られている。もう2ヵ月ほど早い時期に訪れたときは事情が違ったようだが。

朝食後、昨日新たに見つけたシェルターを再び訪れる。アブドゥラやハマを含む全員でシェルターに仰向けになって絵を見るが、何の絵なのか、説得力のある意見は出なかった。フタコブラクダのようにも見える絵もあるが、この近辺にはヒトコブラクダしかいない。



砂漠に生えている木はほとんどがアカシアだ。トゲが長く鋭い。草もトゲのあるものが多く、これが靴の中やテントの中に入ってくるとなかなか辛いものがある。大型のほ乳類もそれなりにいるらしいのだが、足跡ばかりで生きている姿はまだ見ていない。シェルターにバーバリー・シープの角があった。



Tadrartには城塞の廃墟のように見える岩山がたくさんある。




Oued el Beridjをさらに進み、Tadrartの南西の端あたりに着く。Iberdjen Uan Tabarakatという砂丘地帯を通る。砂丘が現れるとぐっと雰囲気が砂漠らしくなる。稜線の形が美しい。大きな砂丘を車で超え、急降下するとき、車中では目をつむって寝ているような様子であることが多いロバートが「イーハーッ!」と控えめに言うのだった。一応、アメリカ人ぽく言っておこう、という感じ。そもそもイーハーって何なんだろう。



奇岩を見ながら、戦車の描かれた小さなサイトに寄る。馬が二頭、きっちり重ねて描かれている。




Kel Essoufと呼ばれる石彫のあるシェルターに入る。これは実に奇妙な形だ。1990年代半ばに初めてまとまった形のものが発見されたという(この付近の岩絵の多くは90年代に観光が盛んになったときに初めて記録されているものが多い)。
Kel Essoufというのは、トゥアレグが「people of the spirits」(evil spiritsという説も)というような意味でつけた名らしいが、何をモチーフにしたものかわからない。(ちなみに、Kel Assoufというトゥアレグのバンドがあるが、これは「望郷」とか「永遠の子」という意味だとされている。同じ単語なのか?)。このモチーフはTadrart南部、タッシリの東のリビア領のAcacus以外にはあまりみられないものらしく、ほぼ全てが石彫、それも線刻ではなく、絵の内側を彫り込んだ形だという。魚、それもナマズのように前面が平板な魚を上から見た姿に似ているものもあるため、最初は魚と表現されていたこともあるようだが、左右に延びた線がひれであるとしたら、先端が3つに分かれているのはおかしい。尻尾か男根のようなものもついている。それと、前脚らしきものの付け根が丸い球体間接のようになっていて、そこのあたりから触覚のようなものが延びているものもある。これはとても魚には見えない。これをサハラ最古のロック・アートだという学者もいるようだが(この上にもっとも古いタイプのペインティングが上書きされている例があるという)、確たる根拠はないようだ。






「虫かな」「これは宇宙人でしょ」「デニケンに教えてやったら喜ぶぞ」などと冗談めかして言い合うが、皆、何の絵なのかさっぱりわからない、という感じだった。これを、この近辺の岩絵や石彫の最古のものではないかと主張している学者もいるようだが、特に具体的な根拠はないようだ。何にしても、きれいに内側を掘り抜いて、ある程度まとまった数描いた場所が複数あるのだから、落書き的なものでないことは確かだろう。

レナータは昨日怪我した足の痛みが強く、今日はほぼ車から降りることはなかったが、これは是非見ておいた方がいいからと、2人で肩をかしてシェルターに連れて入った。少し高い場所にある程度のシェルターなのだが、この近辺のシェルターは入り口までが砂丘になっている場所も多く、そうなると歩いて上がるのは結構しんどい。ひと足ごとに砂が流れてふんばりにくいのだ。



その後も、キャンプ地のOued Tin Udedへ向かう途中、いくつかの小さめの岩絵サイトを見る。このエリアはアンドラスも初めてだという。男女が並び立ち、手を握っている姿はいくつかのサイトで見ることになるが、部族間の婚礼などを示しているのだろうか。女性がハンドバッグを持っていて、2人ともサンダルのようなものをはいている。







キャンプ地の向かいに一面砂で覆われた高い岩山があり、そこの上のシェルター(Tin Uded II)に絵があるというので、日没前にアンドラスと上ってみた。砂の斜面を上がるのは本当にきつい。足が沈んでいくの休み休み上るのも難しい。バーバーリー・シープの絵があった。顎から胸にかけての長い毛が強調されているのでわかりやすい。昨夕と今朝見た例の新発見の天井画とどこかタッチが似ているような気もするが...。



岩山の上から見る夕景はどこかアメリカ南西部の、モニュメントバレーのようだった。今年刊行した『奇岩の世界』の中でこんな風景を紹介したのを思い出す。



夕飯の準備をする前にアンドラスが「先に謝っておくけど、これから米に似たものを調理するけど、期待しないでくれよ」と。米に似たもの? 要するに日本の米と違うけど我慢してくれよ、ということで米は米、長米なのだった。どこからか輸入しているのだろう。アルジェリアでも結構米は食べるらしい。ズッキーニの入ったあまり辛くないカレーライスで、悪くなかった。
食事の後、岩絵の年代の話になった。今、このエリアで古い絵は紀元前6000年まで遡るというのが異論の無い範囲のようで、それ以上古いものがあるかどうかとなると議論があるようだ。私は出発前に「氷河期末期の絵」とアナウンスしたりしたが、これはあまり正しいとはいえなかった。紀元前8000年以上古いという人もいるのだが、アンドラスはそうは思わないと。彼は様々なことに懐疑的で、他の世界各地の岩絵の年代測定に関しても、一つ二つのサンプルで古い年代が出たからといって、それを確定的なものと考えるのは無理があると。確かに、年代測定は何かと議論の的になるものだ。この旅に出る直前にも、ボルネオ島東部の手形がたくさん押された洞窟のサンプルで4万から5万年前という数字が出たというニュースがあった。5万年前にボルネオ島に人間がいたことは間違いないのだろうが、おそらくこれから異論があれこれ出てくるに違いない。


夜は星がきれいに出ていたので撮影した。明け方は10度以下になる。


アルジェリア、タッシリ・ナジェール岩絵撮影行・その3

日の出は6時半くらいだ。朝は寒く、ダウンジャケットを着る日も少なくなかった。
朝食はコーヒー、紅茶などに、バゲット、ジャムやはちみつ、チーズなど。


朝食を済ませると、昨夕訪れた岩絵のあるシェルターに再び上がる。光線の具合で昨日はよく見えていた絵がみつけにくくなっていたりする。



ところでアメリカ人のロバートはサンディエゴに住んでいるが、パリ経由のエールフランスでアルジェに来て、預け荷物をロストされてしまった。今日、ジャネットに届くことになっており、ツアー会社のスタッフに受け取りに行ってもらっている。まだ比較的町から近い場所にいたからよかったものの、初日から砂漠の奥に入ってしまっていたら荷物無しで10日過ごさなくてはならないところだ。荷物の受け渡し場所として、N3A線を少し戻った場所にあるTanaoutという、玄武岩の岩塊が山になっている場所に行く。初日に寄る予定だった場所だ。
玄武岩塊におびただしい数の彫り物がある。キリンや牛などの動物、同心円、らせん模様、具象と抽象が混じったもの──。なかなか見ごたえがあった。らせんや同心円の意味はわからないが、こうしたものが壁画ではほとんど見かけることがなく、ほぼ岩面への線刻に限られているということが面白い。





ロバートの荷物も無事受け取り、さらに道路を南東に向かい、その後道を外れて東へ。Tadrartと呼ばれるタッシリの台地の東南側に広がる岩山の地域に入っていく。Tadrartは「外タッシリ」とも呼ばれる。私が参加する前半のツアーはほぼこのTadrart地域を巡る予定だ。砂の色がだんだん赤くなっていく。TadrartはTadrart Rouge=赤いタドラートと呼ばれている。
この後、Oued el Beridjというエリアに入る。Ouedは枯川、谷を指す言葉でwadiとも呼ばれる。先ず、この谷の入り口付近の「手の洞窟」と呼ばれる、手形のステンシルが壁面にたくさん残されたシェルターに入った。タッシリでは手形はあまり多くないようだが、ここはかなりの数の手形がおされている。年代はわからないようだ。


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さらにOued el Beridjを進む。写真を撮りたくなる奇岩があちこちにあるが、どうも他の人たちはあまり興味が無い(か、見慣れているのか)ようだし、アンドラスは早く次の岩絵サイトに行きたいので、なかなかいちいち停まってもらいにくい。絵や線刻のある小さなサイトを複数見る。二頭の馬を駆る人物像、長い槍を持つ戦士か狩人、シェルターの床の岩に彫られた象の線刻画──。時代、モチーフ、様式、全てが多種多様だ。





陽も傾いてきて、大きな牛のレリーフのあるMarka Ouandiという場所の近くにキャンプ地を定める。
牛のレリーフは線が二重になっており、力強く彫り込まれたなかなか見事なものだ。リビアのMessakのものと共通するスタイルと考えられている。残念ながら光線の具合が悪く、はっきりしない。イギリスでカップ・アンド・リングマークの彫られた岩など撮影したときも同様で、絵が彫られた岩に斜めから陽があたらないと鮮明に見えてこないのだ。明日の朝日が上手い具合にあたるかもしれないから、朝イチでもう一度来てみようということに。


まだ日暮れには時間があるので、アンドラスは1993年に発見のリポートのあったイヘーレン様式の絵のある場所を探しに行くという。昨年のツアーでも探索したようだが、見つからなかったのだと。
彼は自らの探索行をかねて人を募り、人数をそろえることでコストを抑えている。古い資料にあたって、まだ行ったことのない場所を探し歩く。

アンドラス、私、ロバートでMarka Ouandiの北側のエリアのシェルターをひとつずつ見ていくが、それらしきものが無い。どうも探す場所が見込み違いだったようだということになり、戻ろうとしたとき、キャンプ地の方からレナータがやってきた。アンドラスが彼女の近くのシェルターに絵がないか見てくれと声をかけると、あると。急いで向かう。探していたものではない、簡単なものだった。皆がぞろぞろと帰りかけた時、なんとなく低いシェルターの天井を見上げると、絵がたくさん描かれているではないか。大声で呼び戻した。
それはやはり探していた絵ではなかったが、とてもユニークな絵で、おそらくどの記録にも残っていない、初めて見つかったものに違いないということだった。これはいい記念になった。私はオーストラリアで天井にかかれた絵をたくさん見てきたので、なんとなく上を見る習慣がついていたようだ。
おかしな絵だ。牛はわかるのだが、その他に書かれたものがよくわからない。なんだかサボテンのような、または男性器のように見えるものもあるが、どうだろうか。アンドラスもこういうものは見たことないという。キース・ヘリングの絵みたい、とレナータ。翌日見に来たヨナスに「ちょっとペニスみたいだけど」というと、「ちょっと便所の落書きみたいだなと思った」と。




簡単に写真をとって、後は翌朝また来てみようとなったとき、レナータの乗った岩がぐらついて転び、彼女は足をくじいてしまった。痛みで歩けない。まだ2日目なのに、これは本当に気の毒なことになった。骨にヒビなど入っていなければいいのだが。

レナータを心配しつつも、エレーナが持ってきたアイリッシュウイスキーを飲んで、辛くないチリシチューを食べて寝る。月は三日月で早く沈んだ後は星がきれいだ。

アルジェリア、タッシリ・ナジェール岩絵撮影行・その2

現地の旅行会社Essendileneの宿泊所で9時頃朝食。こちらの家屋は分厚く高い壁に囲まれ、扉は堅牢な金属製のドアがきっちり施錠されている。窓は外側にはほとんどない。
昨夜は暗くてよく見えなかったが、すぐ近くにモニュメントバレーの孤丘=ビュートのような岩山がある。
中庭が広く、ラグを敷いた一角があり、そこで食事をとった。椰子の葉を裂いたものを編んだござのようなものがかけてあるが、砂よけとして使う囲いなのだという。様々な石を置いたスペースもある。水晶、溶岩の塊、化石片など。アルジェリアの瑪瑙の画像を見たことがあるので、アンドラスに聞いてみたが、見たことはないという。





Djanetジャネットはアルジェリア南東の端のIllizi地方の南東のオアシス都市で、町が作られたのはオスマン帝国時代だという。標高約1000メートルと、少し高い場所にある。町の一部はオアシスに隣接する岩山の中腹に、自然石を利用して建造されているが、現在廃墟になっているエリアもある。

アンドラスが市場に食料などの買い出しに出るので同行する。野菜は馴染み深いものが多い。なんでも売っているが、生野菜は数日しかもたない、肉はクーラーボックスに入れても安心して食べられるのはせいぜい2日だろう。パスタや米など乾物系やチーズ、サラミなどの保存のきくもの、そしてなにより水を大量に買う。ボトル入りの水は少し硬質な感じだったが、特に飲みにくいことはない。
今回、テントや寝袋は各自持参だ。19リットルのボストンバッグを買ったが、荷物を極力減らすため、着替えを最小限にしようと中国製のぺらぺらの使い捨て靴下をamazonで10日分買った。これが出発前日に届いたのだが、大失敗だった。見本の写真と異なり、くるぶしの下までしかなく、かろうじて足裏をカバーする程度のひどい代物だった。右足に神経痛の持病があり、冷えて痛み始めると長引くので、夜10度以下でこのぺらぺらの靴下はきつい。アンドラスに頼んで靴下を3足買ってもらった。


再び宿泊所に戻って昼食をとる。さきほど買ったバゲットにチーズやサラミなどをはさんで食べる。アンドラスから皆に食事についての説明が。今回のツアーの趣旨は岩絵を見て歩くというもので、そのために食事にかかる手間は最小限にしたい、朝食も昼食もこのように火を入れる必要のない簡単なものになる、と。同行のトゥアレグ人ガイドに炊事を手伝ってもらえばおいしいものができることはわかっているが、その時間が惜しい、皆さん、このツアーの趣旨を理解して参加してくれたわけだから、そこはいいね? と。その内容がどういうものかだんだんとわかっていくのだが。

午後3時近くに2台のランドクルーザーに分乗して出発。私の車にはアンドラスとロバート(仮)。運転手はアブドゥラ。もう一台の運転手はハマ。
ジャネットから南東へN3A線を走る。この道は北西ー南東方向に広がるタッシリ・ナジェールの台地に沿った道だ。道路の舗装が新しい。ジャネットを出て、空港への分岐を過ぎて少しすると軍隊の検問がある。
アブドゥラが書類を見せる。参加者の氏名も書いてある。先方にも、どんな人数構成でどういう日程なのか連絡が入っていて、事前に申請されていない外国人は通れない。アンドラスによれば、彼らは誰がどこにいるかほぼ把握しているはずだ、と。ここはトゥアレグの地だが、兵士はアラブ人だ。
アメリカ人がいるのか...」若い兵士がつぶやいた。

検問をパスして、さらに南東へ進む。左に現在は立ち入り出来ない台地を見ながら走る。台地の上こそが「タッシリ・ナジェール国立公園」の中心地であり、有名な「白い巨人」をはじめ、見事な絵があるのだが、台地の東端はリビアから容易に入ることが出来、治安が管理しにくいため、カダフィ政権崩壊後はほぼ閉じられている。

途中分岐があり、左がリビア、右がニジェールと表示してある。リビアはGhatに通じているが、ニジェールとの国境は閉じているようだ。ここで記念写真を撮ってさらに進む。巨大な錐形の孤丘がある。こういうものが、上部の岩塊が全て風化で崩れてしまうと、見事な円すい形の瓦礫の山になるのだ。


さらに少し南に行ったところで舗装道路を外れ、Tin Ressouに入り、初日のキャンプ地とすることに。小高い岩山の上部にある二つのシェルターには非常に状態の良い岩絵が複数残っている。最も見事なのは、Iheren style=イヘーレン・スタイルと呼ばれる紀元前3000年前後とみられる様式の複数の人間によるライオン狩りのシーンだ。イヘーレンはジャーネットの北西の都市でその近辺にこのスタイルの絵が集中している。今回のツアーで私は途中で離脱するのだが、残りのメンバーはそちらへに向かうことになっている。イヘーレン様式の絵を描いたのは地中海沿岸から渡来した白人系遊牧民と考えられている。サハラ各地の岩絵を高解像度の写真で詳細に撮影されてきた英隆行氏のウェブサイトで見事なイヘーレン様式の絵の数々を見ることができる。http://hanafusa.info/project/fresco-of-iheren/

ライオン狩りの絵はとてもユニークだ。体は黄色く塗られ、縞模様が描かれている。人物は躍動感のあるポーズをとっており、髪の毛が非常に細かく描かれている。現在はもちろんサハラ砂漠にライオンはいないが、かつてサハラは木々の茂るサバンナだった。サハラの岩絵には、ライオン、キリン、サイ、ダチョウなど、今はいない様々な動物が描かれており、描かれている動物から絵の時代を推測することができる。サハラに岩絵が描かれるようになったのは6000BC頃とも8000BC頃とも言われ、さらにはもっと古いという人もいるようだが、このエリアに牛が持ち込まれるのは4500-4000BC頃、馬がこのエリアに持ち込まれるのが2000BC頃、ラクダが描かれるのは紀元前後からと考えられている。


Tin Ressouにはイヘーレン様式の絵以外にも様々な様式の、おそらく異なる時代の絵が遺されている。最も古いのではと思われるのは黒いシルエットで描かれる人物だ(下の最初のもの)。直感的にネグロイド系に見える。欠けているが、裸身のように見えるフォルムはとても美しい。



日も暮れてきたので、もう一度翌朝に訪れることにして、シェルターのある岩山を降りる。岩がゴロゴロした斜面で、エレーナ(仮)が滑ってひざをケガしてしまった。破れたズボンから見える傷が痛々しい。彼女はおそらく70歳前後だ。元々ひざが悪く、よくこのようなしんどい旅に参加しているなと思っていたが、実は長年エジプトの砂漠の奥に訪れ、通常の旅行客が行かない場所に連れていける現地ガイドとともにキャンプツアーを主催しているつわものだった。私など問題にならない経験がある。

今回、アンドラスからテントは中国製のぺらぺらの安物でいいと言われていたが、せっかく買うのだからと、モンベルで2人用を買った。2kgほどのテントだ。羽毛の寝袋も購入したので、思いの他コストがかかってしまった。
皆でウォッカのファンタ割りを飲んで、夜9時前に寝る。晩ご飯は鶏肉の焼いたものと大量のマッシュポテト。
肌寒いくらいの気温だ。アンドラスとロバートは地べたにマットを敷いて、その上に寝袋で寝ている。白人てのは本当に丈夫にできている。
これは岩絵のあるシェルターからキャンプ地を見下ろした写真。

アルジェリア、タッシリ・ナジェール岩絵撮影行・その1

エミレーツ、ドバイ経由でアルジェに昼の12時過ぎに着く。イミグレーションで長蛇の列になった。入国カードがフランス語表記のみで、書き込み欄もものすごく小さい。これはビザの申請書も同じで、滞在先の住所などとても書き切れないほど欄が小さい。アルジェリア人はよほど小さな字を書くのに慣れているのか。
入国管理官は2人なのだが、列はゴチャゴチャと4-5列くらいになっていて、ちゃんと並んでいたはずなのだが、なぜかじりじりと後尾になっていき、数人後ろだった人がはるか先にいたりする。結局最後には末尾近くになっていた。「アルジェリアの空港では、日本的な礼儀正しさは忘れた方がいいよ」と、後で言われるのだが、強引に割り込まれたおぼえもなく、どうしてそうなったのかよくわからなかった。結局、イミグレーションに1時間半ほどかかってしまう。
ATMを探すが、壊れている。途中個人の両替商が何人も付いてきて、いいレートで交換してやるとさかんに言い寄ってくる。


国内線が夜の10頃発なので、空港でずっと待っているのもしんどく、どこかで休める所はないかと今回の旅の主催者であるアンドラスに相談したところ、空港に近いIbis Hotelを紹介してくれ、予約もしてくれたが、これは失敗だった。数時間の休憩でも宿泊扱いで、一万を超える金額、部屋はビジネスホテルよりも少し広い程度だ。シャワーのお湯もすぐに止まってしまった。
再び空港に戻り、待ち合わせのカフェに。主催者のアンドラスが来ていたことに驚く。

アルジェリアのビザは、指定された日本の旅行代理店を通した申請でなければ、アルジェ国内の旅行代理店から招待される方法でなければ取得できない。
今回参加するツアーはハンガリー人のアンドラスが参加者を募っているが、主催者はアルジェ国内の会社になっている。この会社がアルジェの役所に申請を出し、最後は外務省から参加者それぞれの国の領事宛てに許可の連絡が行き、そこで初めてビザの申請の手続きに入ることになる。
アルジェ国内の会社が役所に申請書を出してから、4-6週間かかって各国の領事に連絡が行くのがここ数年の通例のようだ。私も6週間ほどかかったが、何故かアンドラスには前日になってもビザがおりない。出発前におりなかった場合は地元の会社が万事心得ているから先に出発してくれと言われていた。結局、当日にビザが発行され、ぎりぎり飛行機に乗れたようだ。
参加者はハンガリー人でエジプト育ち、サハラの岩絵にとても詳しいアンドラスの他、アメリカ人のロバート(仮)、ベルギー人のヨナス(仮)、ドイツ人の女性のエレーナ(仮)と、レナータ(仮)の総勢6人。オーストラリアからもう一人女性が参加する予定だったが、彼女のビザも出発2日前に発行され、半ば諦めていた彼女はペットの世話をしてくれる人が見つけられず、参加を断念した。
私を含め、参加者は50代から60代後半といった印象だ。

国内線でタッシリ・ナジェールの入口になる地方都市Djanetへ。国内線に乗るのに、再び書類に記入してパスポートを添えて審査してもらう必要がある。Djanetに着き、驚いたのは韓国人のごく普通のツアー客が数人いたことだ。彼らは迎えの旅行会社からターバンなどを渡され、空港で「トゥアレグ風」になって出発していった。3日ほどで帰っていく感じらしい。
飛行機の遅延やら何やらで現地の旅行会社が用意した宿泊施設に着いたのは深夜3時過ぎだった。

アルジェリア、タッシリ・ナジェール行き

明日から、アルジェリアサハラ砂漠タッシリ・ナジェールに岩絵の撮影に行ってきます。タッシリ・ナジェールサハラ砂漠が氷河期の終わりにサバンナだった頃の動物や人間を描いた絵が豊富に残る場所です。風化した奇岩が連なる独特な景観でも知られていて、今年刊行した編書『奇岩の世界』でも紹介しました。
現在、最も状態の良い絵の残る中心部は立入りが禁止されていますが(治安の関係で)、他にも豊富に壁画や線刻画がありますので、撮影してきます。砂漠に10日ほどのキャンプで、電波が全く届かないエリアですので、帰国後まとめて日記を公開します。

スラウェシ島・洞窟壁画撮影行 5日目(最終日)

慌ただしい撮影行もこの日が最終日。本当はあと1日あればという感じではあったが、急に決めたので仕方ない。スラウェシは南東のMuna島にも壁画がある。こちらはもっと年代の下ったもので、大きな馬に人が乗っている絵がたくさんある。ニューギニア西岸にも壁画があることも知った。
この日は夕方5時過ぎの飛行機に乗るため、時間のかかる洞窟には行けない。手近に行ける洞窟もあるが、ほとんど見るべき絵は無いというので、初日に行った最古の年代の出たLeang Timpusengにもう一度行くことにした。初日は時間が無いというので、ちょっと慌てていた。別の撮り方でもう一度撮影してみようかと。
同じ地元の人が待っていてくれた。同じ洞窟に数日開けて二度来る人も初めてだろう。





絵の真下が非常に狭く、また、上に上がると三脚を設置できる場所がない。やはり難しかった。
この洞窟の手形から39900年という年代値が出たことは確かだが、他の数ヶ所の洞窟の絵からも3万5千年くらい前の数値が出ている。いずれも上に乗っている方解石の分析結果なので、どの洞窟の絵が一番古いものなのかはわからない。ここの絵だけを特別に重視してもしかたないのだが。

余った時間、Dodoに頼んでHutan Batuという奇岩の景勝地に行く。少しマダガスカルの針山にも少し似た、鋭くエッジの立った形で風化している石灰岩が並ぶ。
畑の中の奇岩を撮影しようとすると、カポックの実が落ちていた。スラウェシに来たときから、綿毛がたくさん舞っているなと思ってはいたし、ちょうど木の実の本の撮影中だったので、良いものがあれば持って帰りたいと思っていたのだ。思いがけない拾い物だった。昔はカポックの綿をクッションなどの詰め物に使っていたようだが、今はあまり使われていないのだとDodoが。



最後に二日目に行った船着き場で食事をした。ビーフンの入ったチキンスープだ。これが最後のスラウェシ島の食事になった。

慌ただしい日程だったが、同行してくれた人たちがいい人たちで、良い旅だった。アクラムが空港で最後まで見送ってくれた。

スラウェシ島・洞窟壁画撮影行 4日目

朝早く起きる。テーブルにはキャッサバを油で揚げたものが盛ってあり、コーヒーと紅茶が。朝揚げたイモをコーヒーで食べるのか、マクドナルドみたいじゃない。ホクホクしていておいしいが、やはり二日酔いが気持ち悪くてあまり食べられない。それにこちらのコーヒーにはかならず砂糖がしっかり入っていて、それも胃にもたれる。甘いコーヒーをちびちび飲むのが普通なようで、私がすいすい飲んでいると、こんなに速くコーヒーを飲む人を初めて見た、と皆が。裏庭に大きなコーヒーの木があり、ちょうど実が熟していた。コーヒーの木はほうっておくとこんなに大きくなるものなのか。完熟した実をかんでみた。とても甘い。

さて、そろそろ出発かなと思っていると、奥の方でカチャカチャ食器のなる音が、まさか...と思っていると、朝食ががっつり並べられていた。
「さっき食べたじゃないか、イモを!」というと、あれは朝食じゃないよ、朝食までのつなぎでしょ、と。もう勘弁してください、決して味が気に入らないわけではない(実際、味付けはクセが無くおいしい)けれど、もう限界なんです。
みんなは朝からご飯を山盛りにしてモリモリ食べていた。どうなってるのか。

アクラムが朝散歩していて、この実を拾ったからあげる、と、ゴルフボールらいの茶色い実をくれた。種はスパイスに使うんだ、と。こちらでは料理に欠かせないもので、特に珍しくはないようだが、私がずっと木の実を拾っているので、気を利かせて拾ってきてくれたのだ。後でわかったが、ククイという名だった(写真右3つ)。

今日は山登りだ。BPCBにUhallieの写真を送って、私は是非この絵を見たいと伝えたところ、ここは大変アクセスが難しい所だと聞かされていた。山歩きを6時間する必要があると。それも結構急な山道だという。アワルディンが案内してくれるのだが、荷物を少し持ってくれることになった。そして、お昼ご飯があるからもう一人荷物運びが必要、と話している。お昼ご飯がそんなに重いのか....。オーストラリアのジョワルビナでスティーブ・トゥリーザイスに案内してもらった時など、昼食無しでぶっ通しで6時間以上歩いたのを思い出した。(それは、彼が何時間歩くとか、お昼ご飯を持っていけ、とか何も言ってくれなかったのがいけなかったのだが.....。)わたしは今日、リンゴひとつくらいあれば十分なんだが。

最初はこの日も山から降りて村に泊まる予定だったが、がんばればマロスに戻って、最終日の明日別の洞窟が見られるというので、Dodoに夕方から運転してもらうように頼んでおいた。彼は運転もあるし、体力的にきついので山登りはやめておく、と。
川を渡るというのでカメラを入れるドライバッグを持ってきたが、乾季の終わりなので、水深は深い所でも30センチほどだった。雨季には渡れないのだろう。
山登りはさほど大変でもなかった。きつい登りは1時間強で、後は大したことはない。でも、アクラムらが「こんなに大変な場所にある岩絵って他に行ったことある?」というので、まぁ、ある、というと、えぇ? という反応。うーむ都会っ子。これはそんなに大変な山登りではないでしょ。


山の上に上がると、皆が「お、電波が来てる」と。村は携帯の電波の圏外だが、上に上がるとつながるのだ。電波の来ない村でも、多くがスマホを持っている。普及率は大変なものだ。電波の利用料もとても安い。スマホの普及で皆が写真を撮るようになった。インドネシア人のグループ旅行者を見ると、みなスマホをかざしながら歩いている。また、外国人と見るや、一緒に写真を撮ってくれと言ってくる。今回も随分写真を撮った。

山の中は美しい蝶がたくさん舞っている。山道はおそらく別の村とつながっている生活道の一部なのだと思う。道は茂った草の様子からあまり人が頻繁に通っているようには見えなかったが、牛も放牧されているし、人の手が入っている山だ。途中に小さな家があり、黒砂糖を煮詰めていた。木造の伝統的な高床式の家だ。アワルディンの従兄弟の家だという。登り3時間と聞いていたが、2時間強で洞窟に着いた。山の高さは600m無く、実際に上ったのは200mくらいか。高尾山に麓から上るよりもずっと楽だろう。


Uhallieの洞窟は開口部が高い位置にある。入口にかけられた竹のはしごが少し朽ちていた。ここは滅多に人が来ないので柵も何もない。



入ってすぐ、正面奥の壁面に目当てのアノアの絵があった。本当にいい絵だ。保存状態もいい。この写真をナショジオで見なかったら、スラウェシ島の壁画をどうしても写真にとは思わなかったかもしれない。アノアの顔の前に手形がたくさんあるのだが、その配置もいい。アノアの口が少し開いているので、何か手のひらと会話しているかのようにも見える。素朴な絵ではあるのだが、生命力が感じられる。
他にも歩くアノアの絵が複数、バビルサの絵もある。面白いのはアノアの足の下に、地面が線で表現されていることだ。これは岩絵の世界ではとても珍しいことだ。







アノアの絵のある大きな空間の隣に鍾乳石が並ぶ狭い空間がある。緑色の鍾乳石の上の天井部に多くの手形がついていた。絵もいいし、洞窟の形もとてもいい。



いやー、来てよかった、本当にいい絵だし、いい場所です、というと、
「あなたは二人目だ」という。
「え、今年二人目? 少ないね」と言うと、「そうじゃない、外国人でここに来るのはあなたが二人目なんだ」と。
これには驚いた。2010年にアワルディンが写真を公開し、その後、オーストラリアの考古学者が来てから、私が来るまで、インドネシアの学者や政府の職員以外、誰も来ていないのだ。ナショナル・ジオグラフィックで世界中に配信されたのに。こんなにすばらしい絵が残っているのに。それにアクセスが難しいというが、村に泊めてもらえさえすれば、2日あればマッカサルから行って帰って来れるのにだ。
オーストラリアのキンバリー地方を延々4WDで走り、ヘリコプターに乗り、さらに灼熱の日差しの中、川岸を歩いて絵にたどり着いて、暑さでおかしくなって服を着たまま川に飛び込んだ経験がある者としては実に簡単な場所なのだが....。
NHKも岩絵の取材に二度来たらしいが、ここには来なかったと。なんで二度も来て、ここに来ないのか。わからん。けど、二人目と聞いてちょっと気分がいい。

さ、帰ろうかね、というと、「弁当を食べなきゃ」と。うーむ。やっぱり食べますか。
道中アクラムやイムランが「エナジーエナジー」と言いつつやたらとチューブ入りのチョコレートや甘い菓子を渡してくるので、なんだか胸焼けが酷いのだ。こちらでは太いストローくらいのビニールのチューブに柔らかく溶けたチョコが入ったやつが売っている。端を噛み切って吸うのだ。日本の空港で買ったブルボンのアルフォートがドロドロに溶けて一体化してしまったので、これは納得な食べ方だ。赤道近くの国で板チョコななかなか食べにくい。昔駄菓子屋に売っていたチューブ入りチョコレートを思い出した。

みんなお弁当をもりもり食べて下山。思ったよりも早く家に戻れた。
アワルディンが「感想を聞かせて欲しい」というので、ここは本当に素晴らしくいい絵が残っている、もっと広く知られてしかるべきだ、案内してもらって本当に嬉しい、云々と話すところを録画された。そのうちFacebookにアップするつもりかもしれない。

家に入ると奥さんがお茶とお菓子を出してきた。Dodoも長く運転しなくちゃいけないし、早めに戻ろうね、と思っていたが、みんななかなか腰を上げない。そうこうしているうち、奥の部屋でカチャカチャ食器の鳴る音が。ああ、まさか...。「早めの夕食」なのだった。
アクラムに、さっき弁当食べたばかりでしょうが、と言うと、「そうだよね、でも食べないと失礼になるから」と。
とか言いつつ、みんなしっかりご飯を盛りつけて食べている。
失礼になるから、と言うが、食べた後に奥さんに礼を言うでもなく、片づけを手伝うわけもでもなく、皆すっと立って別の部屋に行く。日本であれば、男があまり食器を下げたり洗ったりしない私の親世代(大正生まれ)でも、招かれた家の奥さんには「ごちそうさまでした。おいしかったです」くらい言いつつ、食器を重ねたりくらいはするだろう。せっかくの料理を食べないと「失礼になる」というのは家の主に、ということなんだろうか。が、人の振る舞い方にはそれなりに歴史的な蓄積があるのだ。あまり余計なことはせずに、自分の食器だけ片づけて「ありがとうございました」とインドネシア語で言って頭を下げると、奥さんが驚いて超恐縮していた。
マッカサル周辺の女性はブルカをつけている人が多いが、みなとても開放的な印象で、知らない男性に自分から声をかけてはいけない、というようなことは全くない。一緒に写真を撮ってほしいと何度も声をかけられた。スマホの普及で、外人と写真を撮るのがはやってるのだ。

食事を終えて、いよいよお別れし、再びマロスに。ホテルに着いたのは夜の8時過ぎくらいだった。思ったよりもずっと楽な行程だった。
またビールが飲めるレストランに行く?というので、いや、もう今日は食べられないし、昨日飲み過ぎたので飲まない、みんなはもしかして夕飯を食べるの?と聞くと、そのつもりだと。.....どういう胃をしているのか。帰り道の途中でバナナを買って食べていたし。
明日は帰国だから荷物の整理もあるので、今日はこれで。後で精算するから俺抜きで食べに行って、と言い、結局払うのを忘れて帰国してしまった...。許してほしい。