岩手県一関市にある「石と賢治のミュージアム」で、私の模様石のコレクションの展示が行われています。「不思議で美しい石の世界」と題して、約100点強のメノウやジャスパー、風景石などを展示しています。
南北アメリカは人類が最後に移り住んだ大陸で、今から1万5000年以上前、私たちと同じモンゴロイドの一団が、アジアから凍結したベーリング海峡を渡って入ったのが最初だ──。こう私たちは教わってきた。南北アメリカの先住民たちは皆、彼らの子孫なのだと。
だが、彼らは本当に「最初のアメリカ人」なのか、疑問をなげかける遺跡がある。ブラジル北部のピアウィ州にあるカピバラ山地(セハ・ダ・カピバラ)だ。
カピバラ山地はグランドキャニオンのミニチュアのような、堆積岩層が深く侵食されたダイナミックな地形だ。切り立った岩壁に無数の壁画が描かれている。
この地で発掘された石器などの遺物は5万年以上前、壁画は2万5000年以上前までさかのぼるという年代測定値が出ている。これは従来の歴史観からすればありえない数値だ。人類が南米に到達したのは、早くとも1万4000年前頃とされているからだ。
年代測定値を疑問視する研究者も少なくないが、南米では以前から、一般的なアメリカ大陸の先住民と異なった特徴をもつ人骨が複数発掘され、議論を呼んできた。顔の幅が狭く、目の上の骨が盛り上がり、彫りの深い顔だ。一部の人類学者は、オーストラリア先住民に最も特徴が一致すると主張してきたが、広く受け入れられることはなかった。
ところが、2015年、科学誌『ネイチャー』に掲載された論文が大きな話題を呼ぶ。ブラジルのアマゾン奥地に住むいくつかの部族のDNAに、オーストラリア、ニューギニア、インド領アンダマン諸島の先住民にしか見られない特徴が発見されたというものだ。
異なる時期に異なるルートでアメリカ大陸に渡った人類がいた可能性が、にわかに真実味を帯びてきた。
カピバラ山地の絵はとても素朴なものだが、生活のさまざまな場面が細かく描かれている。動物たち、狩りの場面、集団で踊り、跳ね、肩車をする姿─。全身を覆い、ミノムシのような姿で行列する不思議な場面もある。
興味深いのは巨大なアルマジロを捕らえようと、尻尾につかまる人の絵がたくさん描かれていることだ。この地域にはかつて軽自動車ほどもある巨大なアルマジロが複数種いたのだが、1万2000年前頃に絶滅している。絵はこの動物が多くいたときに描かれたと考えるのが自然だろう。
カピバラ山地の人たちは岩壁に埋まった小さな石ころにまで絵をかくような、無類の絵好きだった。彼らが熱心に絵を描くことで仲間や子どもらと共有しようとしたのはどんな文化、物語だったのか。彼らの祖先は、どのようなルートで南米に到達したのだろう──。
現地では現在も盛んに発掘が行われている。今後、「最初のアメリカ人」の真実に迫る発見があるかもしれない。
(『しんぶん赤旗』5月29日掲載分の再録)
アルジェリア東部、見渡すかぎり不毛の地が続くサハラ砂漠の真ん中に、2頭のキリンの絵が彫られた岩がある。砂と岩山しかない周囲の環境とあまりに不釣り合いだが、この絵はサハラの遠い昔を物語っている─。
北アフリカを覆う世界最大の砂漠サハラが、かつて緑豊かなサバンナだったことはあまり知られていない。
約1万年前、氷河期の終わりにともなう気候変動で急速な湿潤化が進んだ。雨が降り、砂地に川が流れ、植物が茂り、森林さえあったという。「緑のサハラ」と呼ばれるこの時代は約5000年前まで続く。
「緑のサハラ」には、植物だけでなく、現在はアフリカの中・南部にしかいないライオン、ゾウ、キリン、サイといった動物が数多く棲んでいた。キリンの絵を刻んだ岩はこの時代の産物なのだ。
サハラ砂漠には、時代の異なるおびただしい数の壁画がある。「緑のサハラ」の時代から、再び砂漠に戻っていくまでの数千年間、さまざまな人びとがこの地にやって来て、去っていった。その移り変わりが、絵巻のように残されている。
最初に登場するのは、狩猟民だ。丸い頭の、下肢の肉付きのよい人たちの姿が描かれている。仮面や装飾をつけて踊る姿もある。次に牛を連れた遊牧民たちが現れる。壁画には、牛の模様が1頭ずつていねいに描かれている。
遊牧民には東アフリカから来た人たちと、後に地中海沿岸から来た白人とがいたようだ。どちらも独特なタッチで洗練された壁画を数多く残しており、そこから当時の暮らしぶりを知ることができる。家族で和む場面、弓矢で闘う場面、宿営地を襲ったライオンを退治する場面──。
乾燥が進み、緑が失われていくと、馬を持ち込んだ人たちが現れる。馬2頭立ての戦車も登場する。日中と夜間の気温差が大きくなり、人びとは長い服を着ている。そして、紀元前100年頃、サハラが再び完全に砂漠になると、ラクダを連れた人たちの姿が現れるのだ。
異なる民族、集団が出会うとき、さまざまなことが起きただろう。なかには不幸な結果を招く出会いもあったにちがいない。
一昨年の壁画探索行で、そうしたことを伺わせる絵を見た。黒い人々の行列だ。皆、どこかうなだれているように見え、顔を両手で覆う姿もある。泣いているようにも見える。行列が向かう先には白い肌で縮れ毛のアフロヘアの人たちが、牛とともに描かれている。この人たちの一人は黒い人たちの行列を先導しているようだ。
これはどんな場面なのか、描いた人はどちらの側の者なのか──。想像を巡らせてみるが、知る術もない。確かなのは、仮にこれが二つの集団の争いの結果を描いたものであったとしても、勝者もまた、この地から退場していったということだ。
(『しんぶん赤旗』5月22日掲載の文章を再録)
「人類最古の絵」はどこにあるのか──。
これまで美術の歴史をたどる書籍などで、最初に紹介されるのは決まってラスコーなど、ヨーロッパの洞窟壁画だった。これらは主に約3万5000年から1万5000年前のものだ。
だが近年、こうした見方がくずれつつある。
2014年秋、インドネシアはスラウェシ島の洞窟壁画の年代測定値が発表されると、「芸術誕生の地はヨーロッパではないかも?」といった見出しが欧米のニュースサイトに踊った。洞窟の天井につけられた手形から、約3万9900年前という数値が出たのだ。
その少し前、スペインの洞窟壁画の一部から約4万800年前という数値が出てはいたが、スラウェシ島の絵はこれをさらに更新するのではないかと、どこか残念がるトーンで伝えられたのだ。そして予想通り、その後の調査でスラウェシ島の壁画は約4万4000年前までさかのぼっている。
東洋と西洋で「最古」を争うことにあまり意味があるとは思わないが、人間の歴史をたどる上ではとても興味深い。
現生人類共通の故郷はアフリカだ。約30万~20万年年前、アフリカで誕生した現生人類は、約7万年前頃からアフリカを出、世界各地に広がっていった。
初期に出たグループのひとつは、アラビア半島、インド沿岸、インドネシアを通ってオーストラリアに約6万5000年前に達している。ヨーロッパに到達したのは約4万5000年前とされているので、インドネシアにとても古い絵があって不思議ではない。
私は一昨年、スラウェシ島南部を訪れた。壁画のある洞窟は多く、未だ全容はわかっていない。小さな山村の裏山に残る絵を見に行ったとき、案内してくれた地元の青年が、この絵を見に来た外国人はあなたで2人目だよ、と教えてくれた。
彼は子どもの頃、祖母から近くの山の洞窟の絵の話を聞いていた。おとなになって自ら調べに行き、写真をネット上に発表し、世界に知られることになったのだ。
その洞窟の絵はとても印象的だった。アノアというカモシカに似た小型の水牛を描いたものだ。アノアの顔の近くには、人間の手形がたくさんある。おとなの手に混じってごく小さな子どもの手形も──。私にはまるで人の手と動物が何か対話をしているかのように見えた。アノアのおなかは大きく膨れている。妊娠しているのかもしれない。
「最古の絵」に話を戻すと、一昨年、スペインの洞窟壁画で約6万5000年前というとんでもなく古い数値が出ている。
だが、この年代に、現生人類はまだヨーロッパに到達していないはずだ。これは当時そこに住んでいたネアンデルタール人が描いたものではないかと、大きな議論になった。
人類と絵画の歴史にはまだまだ謎が多い。
(『しんぶん赤旗』5月15日掲載の原稿に写真を一点追加)
オーストラリア北東部の壁画に、棒のような体の小さな人物像が見られる。「踊る人」と呼ばれてきたが、ミミという、人間に絵を描くことなどを教えた精霊の姿なのだともいわれる。
壁画に描かれるモチーフは、その姿形からだけでは、よくわからない。人のような形をしていても、それは彼らの天地創造の物語に登場する祖先の姿かもしれないし、人を喰らう恐ろしい精霊の姿かもしれない。
壁画に多く描かれる動物の姿も、その意味合いは一筋縄ではいかない。カンガルー、エミュー、ワニ、カメ、魚──。これらは狩猟の対象だったが、同時に、彼らの世界観を形づくる重要な要素でもあった。
彼らは、人は特定の動物の霊と深くかかわりながら生まれてくると考える。それぞれの人や家系、そして場所にも、特別な動物霊との関わりがあるのだ。エミューが多く描かれた場所は、エミューの霊と関わる人たちにとって神聖な場所だったかもしれない。
壁画は描き手の習俗や精神世界を反映したものだ。数万年の間に、さまざまな人の移動、異なる文化の誕生と衰退があっただろう。絵のモチーフや様式もそれにつれて変化していく。
壁画の移り変わりがはっきりと見られるのが、オーストラリア北西部、最後の秘境と呼ばれるキンバリー地方だ。
この地域には、長年論争の的になってきた謎多き壁画がある。先住民がグゥイオン・グゥイオンと呼ぶ小さな人物画だ。人なのか精霊なのかわからないが、とんがり帽子や房飾りなどをつけ、複数で踊っている。写実的で、体の動きや身につけた装束のディテールも生き生きと伝わってくる。
このタイプの絵は、オーストラリア最古のものではないかとも言われていたが、最近の調査で、予想よりも新しい、1万2000年前頃のものという有力な説がでてきた。
比較的短い期間に多く描かれ、様式も技術も受け継がれることなく消えたのだ。その後全く異なる、棒を組み合わせたような、素朴な人物画が登場する。さらに後には、目の大きな精霊を描く別の文化が興って、現在に至っている。
グゥイオン・グゥイオンを描いたのは、どんな人たちだったのだろう。なぜ絵の様式も技術も継承されることなく絶えたのだろう。
キンバリーは海に近いエリアだが、氷河期には海岸線は遥かに遠かった。オーストラリアはニューギニアと一体で、インドネシアの島々ともごく近かったのだ。
キンバリーには舟の絵や、オーストラリアにはいない鹿の群れの壁画もある。槍を投げ合う戦いの場面もある。数万年の間、この地にどのような人たちがやってきて、何があったのか──。壁画を見ていると、さまざまな想像が喚起される。
(『しんぶん赤旗』5月4日掲載)
『しんぶん赤旗』に4月27日から5月22日まで、全5回で「先史時代の岩絵の世界」という連載を執筆しました。ここ数年続けてきた岩絵の取材をもとに書いたものです。許可を得てここに再録します。
私がオーストラリアに残る先住民の壁画の写真を撮り始めたのは、約7年前のことだ。カカドゥ国立公園の岩壁に残る、1万年以上前の手形を見て以来、壁画の世界に引き込まれてしまった。
オーストラリアには、おびただしい数の岩壁に描かれた絵がある。古いものは3万年以上前までさかのぼるが、壁画の歴史はつい最近まで連綿と続いてきた。1万年前の絵のすぐ隣に100年前の絵があることは珍しくない。
同じ壁面に絵が何層にも厚く重ね描きされていることも多く、最も下の層にいつごろの絵が隠されているかは誰にもわからない。4万年前の絵があるかもしれないのだ。人間の歴史の中で、同じ場所でこれほど長い時間続けられてきた文化的営為は他にないだろう。
約3年にわたって各地を巡り写真を撮ったが、最後に訪れたのは、アーネムランドのボラデール山麓だった。
アーネムランドはオーストラリア北東部に広がる先住民の居住区で、面積は北海道の約1・2倍と広大だが、人口は1万6千人ほどだ。
植民地化以前の文化的伝統と自然環境が濃く残る場所だが、かつてのように移動しながら暮らす集団はおらず、私の目的地一帯は数十年間無人状態になっていた。地権継承者の数人のうち、この地に生まれたのは、チャーリー・マンガルダという老人ただ一人だ。彼も前世紀半ば、少年時代にこの地を離れている。
浅い洞窟の壁面いっぱいに手形が押されている場所があった。手形は壁画の重要なモチーフ、そこに生きた人たちの生の証しだ。
さらに、人間、カンガルーや亀などの動物がすき間なく描かれている。人とも動物ともつかない不思議な姿も見える。彼らの世界観にとって重要な精霊たちかもしれない。さまざまなモチーフが重ね描きされ、混然一体となっている。
先住民のガイドに「重ね描きして、古い絵が消えてしまうことは気にならなかったのかな」と聞いたことがある。彼の答えは「消えてはいない。新しい絵の下に残っている」というものだった。
壁画は完成された「作品」ではない。描き続けるという営為こそが重要であり、絵はそこでの暮らしが続くかぎり変化しつづける、生きたものだったのだ。
壁画にはこの地にやって来た白人、彼らの船やライフル銃の絵も見られる。壁画は数万年の時の流れを語る絵巻ともいえるが、絵の意味を全て知る者はもういない。
ある壁画の前に、ひとつの手形がつけられた、ひと抱えほどの岩が置いてあった。あのチャーリー・マンガルダのものだという。テレビ番組の取材陣から、手形をつける場面を撮影したいと強く求められ、しぶしぶ応じたのだという。その佇まいは、長い歴史に終止符が打たれたことを示すひとつの石碑のようだった。
(『しんぶん赤旗』4月27日掲載)
コロナで引き篭もりの真っ最中に、新刊『花束の石 プルーム・アゲート』を刊行しました。昨秋に刊行した『風景の石 パエジナ』に続く、「不思議で綺麗な石の本」シリーズの一冊です。私の持っているものに加えて、アメリカ、イギリス、ドイツ、日本のコレクターから一級品の写真をお借りし、とてもグレードの高い写真集になりました。