「バダルプルの庭」

税務署に行って、ようやく確定申告の書類を提出。毎年のことながら、一年分ためにためていたので、死ぬほど面倒くさかった.....。会計ソフトを使ってはいるが、これが昨年導入したG5と相性が悪く、仕方なく古いG4を起動して操作したが、これまた、毎年のことながら得意先が送ってくる源泉徴収票の合計と、会計ソフトに表示される合計額が合わないなど、いろいろあって苛々しっぱなしだった。結局、自分が入力ミスをしていることがほとんどなのだが.....。


ここのところ、編集者・翻訳家の井上真希さんが昨年発表した訳書、ケニーゼ・ムラト「バダルプルの庭」(清流出版)を車中で少しずつ少しずつ読んでいた。四六判で19行、650ページというボリューム(!)だ。
フランス人作家の自伝的小説だけれど、オスマン・トルコ帝国の皇女とインドの藩王の娘でありながら、母が第二次大戦時下のパリで出産、極貧のうちに客死し、孤児として育てられ、里親や修道院を点々とするという生い立ちだ。しかも、母親が出生届け時期に細工をしたため、本当にインドの王の娘なのか、あるいはアメリカ人男性との間に生まれた私生児なのか判然とせず、ずっと、自分は何者か、または何者として振る舞えばいいか悩み、周囲の環境に合わせ溶け込もうと自分と本来あるべきだった自分の人生へのイメージとに分裂した自意識を抱えつつ成長する。イスラム教徒であるインドの父親に会わせまいとする修道尼や里親の画策などもあり、成人して初めて父親の国を訪れるのだが、本当の親族と出会った後も、封建的な因習、イスラム的倫理と、西欧の都市育ちでしかも当時急進的な「左翼」であった自身のキャラクターとの隔たりに裂かれ、いずれにも完全な帰属意識をもてない。さらに信頼をよせていた父親とも距離をおかざるをえないことが起き、父の死後には義弟と骨肉の裁判闘争と、波瀾万丈としかいいようのない、ややこしい人生だ。帯のキャッチにもあるが、これほどスケールの大きな「自分探し」もないだろう。裕福な養父のもとで上流階級の子弟とともに暮らしていた少女期から一転して、劇場でパンフレットを売って生活する貧乏学生になり、さらに「もうひとつの母国」インドに赴けば近隣の住民にかしずかれる「王女」となる環境の変化には想像を絶するものがある。彼女が常に意識せざるをえなかった周囲の環境との違和感、距離感は、当時のフランス、インド両国の実情に対する鋭い視線となっていて、たとえば、ネルーに協力して独立に尽力した著者の父親に対するインディラ・ガンジーの冷淡な態度など、描かれる人々の振る舞い、仕草などのひとつひとつが実にリアルだ。著者も作中の主人公も後に中東紛争を取材するジャーナリストになるらしいのだが(著者は「ヌーベル・オプセルバトゥール」の記者だったらしい)。
著者はソルボンヌの心理学科、社会学科に在籍していたが、60年代初頭の心理学界、ブルデューなどの新世代の社会学者の姿にたいするちょっとした印象、当時の左翼系学者や活動家のありようも面白く描かれる。なかでも、「自由恋愛」を標榜するトロツキストのグループで、男の性的関心をひくような「思わせぶり」な態度をとりながらも、結局誰とも寝ない女は、「最悪」であると男たちがそろって大まじめに「理論的に」糾弾するくだりなど、笑ってしまった。
長く、本の厚み前にすると一瞬ひるむが、こなれた、読みやすい訳文なので、長さが苦になることはない。

バダルプルの庭