胡錦涛が来る前には、問題を解決しておいてほしい」と、日本の総理大臣が言ったそうだが、何なんでしょ、これは。「そのときまではゴタゴタがなくなっていて欲しいなぁ」という「気分」なのかな? 自分の任期になるべく面倒が起きてほしくないな、というつぶやきがそのまんま漏れ出ているような...。政治家からろくな声が出てこないのは、今さら驚きにも値しないけど、日本の坊主どもは、少しは何か言ったらどうなのかと思う。遠い先輩もいろいろと弾圧を受けてきたのだから。


中山千夏「海中散歩でひろったリボン―ボニン島と益田一」を読んだ。とても面白く、いい本だった。この人の本を読むのは初めてだ。
ボニン島というのは小笠原諸島のこと、益田一は伊豆海洋公園を開いた日本のスキューバ・ダイビングの草分けといっていい人だ。著者は40代でダイビングを始め、伊豆や小笠原でかなりの経験を積んできたという。益田氏というのは、伊豆海洋公園でスキューバ・ダイビングを広めただけでなく、自らと「弟子」とで、精力的に海水魚の調査・写真撮影を行って、初の本格的な図鑑を作った、まさにカリスマ性溢れる人だったということを、初めて知った。この人の祖先は幕末に勝海舟やジョン万次郎とともに咸臨丸で米国に渡り、次いで小笠原に初めて自発的に上陸した一団のメンバーであり、益田氏自らも戦後の返還後に小笠原に初めて渡航したグループに参加していたという。特に船乗りの家系というわけではない(益田一の祖父は三井物産の設立にかかわった実業家なのだそうだ)。この本は、時を越えて小笠原に結びつけられたこの不思議な縁──彼女がいうところの「リボン」──を軸に、草創期のダイバーたちの姿や小笠原で生きてきた人たちの特異な歴史を描いていく。

私は素潜りは好きだったが、スキューバ・ダイビングに関しては、20年近く前にライセンスを得て以来、数えるほどしか潜っていないし、伊豆海洋公園にも行ったことがない。完全にペーパー・ダイバーなのだが、それでも、この本に描かれてる「初期のダイバー」たちの蛮勇というか無茶さかげんはよくわかる。最高100mともいうような深さまで、平気で連日潜って、魚を採っては標本写真を撮っていたのだという。普通、50m以上潜るようなことはあまりないし、私が講習を受けたスクールのインストラクターは、大学の卒業記念の「冒険」に60数mまで潜った際、「窒素酔い」で、同行した友達がレギュレーター(空気を吸う機器)が外れた状態でニターっと笑っているのを見て、慌てて上昇したと言っていた。深度が増すとタンクの空気の窒素濃度が高くなって、酩酊状態になることがあるのだ。さらに深く潜れば潜るほど、時間をかけて減圧しつつ上がらないと潜水病にかかる危険が高くなるし、(実際に、同行した学研の社員が初ダイブで重い潜水病になっている)再度潜るまではしかるべきインターバルを空けないといけない。この本に出てくる人たちは、ひたすら体を鍛えていたというが、なんとも無茶なのだ。

小笠原諸島には大学生時代に2度行っている。83、84年だったと思う。
当時も今も、小笠原へのアクセスは船のみで、空路はない。高校生の時に八丈島のホテルにアルバイトに行ってから、すっかり船旅好きになっていたので、船だけしか通っていないというのは一種魅力だった。また、八丈のホテルで働いていたおばさんが、硫黄島出身の人だった。硫黄島の人たちは戦中の強制疎開以後、島に戻れなくなったのだが、この人の子どもの頃の楽しい昔話を少し聞いていて、南国幻想が強かった私は、硫黄島は無理だけれど、一度小笠原に行ってみたいと思っていた。大学生になり、春休みに小笠原に取材に行った友人が、「小笠原にはウグイスがいっぱいいて、風狂ともいえる情趣あり」というので、これは是非行かねばと、素潜りの好きだった別の友人と夏休みに渡航したのだった。いっぱいいたのはウグイスではなく、メジロだったのだが。

八丈は夜に出港して、朝に着くという8時間ほどの航海だが、小笠原は今でも25時間かかる。
出航は6日に一度。一隻の「おがさわら丸」が往復している。
船の上での25時間は長い。当たり前だが、外海に出ると、周囲はぐるりと水平線が見えるばかりだ。船の舳先近くからはトビウオが次々に飛び立ち、イルカが並んで泳ぐこともあった。夜は天気がよければ水平線から上はまさに満点の星空で、南の水平線からサソリ座が真っ赤な星とともに立ち上ってくるのがくっきりと見えた。

宿泊したのは二度とも、港近くのシルバームーンという、安い自炊の宿だった。これも、先に行った友達のお薦めだった。当時、ホテルといえるようなものはほとんど無かったし、ホエールウォッチングなどで観光客が増える前だったので、町中にも観光客相手の店などほとんど無かった。食料品・日用品が買える店も生協が一軒と、もう一つくらいしか記憶にない。ハイシーズンだったが、三日滞在して、同じ船で帰っていく人が多いので、船が出て行くとビーチに誰もいなくなることもしばしばだった。宿の予約の電話は衛星を介しての無線電話で、ノイズに紛れたタイムラグのある頼りないやり取りだった。「●月●日です、御願いします、聞こえましたか?」と、大声で話したのを覚えている。この本を読んで初めて知ったのだが、この電話をした前年まで、衛星回線は無く、電話は島の電話局にしか通じなかったのだそうだ。もちろん、テレビもなかったので、翌日の天気もわからない。ラジオの天気予報も「小笠原の天気」まではなかなか言わない。気象情報を聞いても、なんだかわからないので、台風が島を直撃した際も、島の海洋調査施設の前に張り出される手書きの天気図を見に行って、「明日あたり来るのかな?」などと言っていたのだった。

宿の主人はセーボレーさんという白人だった。無人島だった小笠原に最初に上陸したのは、遭難した和歌山県のミカンを運ぶ船の乗組員だった。彼らが去った後、ナサニエル・セーボレーというアメリカ人を含むハワイ人、ドイツ系、あるいはイタリア系の移民が25人、1830年に島に住んだのが、この島の歴史の始まりだ。「無人の島」が「ブニンの島」となり、これが欧米で「ボニン島」という名として伝わった。
その後、イギリス、アメリカが領有を主張するも、咸臨丸が来島し、1861年に日本の領有を宣言している。今でも、島には英語の地名が多く残っている。中山千夏の本では、このへんのややこしい事情をとても分かりやすく記している。驚いたのは小笠原という名称の起源で、幕末に、自分の祖先が島の領有権を持っていると、小笠原氏を詐称した者がいて、すぐにこの話は作り話であるとわかったにもかかわらず、名称だけが一人歩きしてしまったようなのだ。
私が泊まった宿の主人だったセーボレー氏は、最初に島に渡ったアメリカ人の直系の子孫だった。
風貌は全くの白人に見えたが、何世代目だったのだろうか。60代後半から70代前半くらいに見えた。我々が行ったときには、連日昼間からかなり酔っていたが、「I never go under the table」、つまり、「俺は呑んでも潰れたことはないんだよ」ということだった。
彼は白人だが、日本国籍で、徴兵されている。私と友人はただただ馬鹿みたいに、毎日泳ぎ、潜り、山を歩き、浜で自分たちで作った握り飯を食べ、宿に帰って、夜になると疲れて寝ていた。お金に余裕もなかったので、店にも入らなかったし、あまり地元の人と話をする機会もなかったが、宿の前庭で、セーボレーさんとは少し話した。戦中に「上官にいじめられ、どれだけ殴られたかわからないよ」と言っていたのをよく覚えている。戦中、島民は強制疎開させられたが、一部、特に欧米系の島民は逆に強制的に残され、軍の手伝いをさせられたのだという。米軍の占領後も、彼らの多くが島に残って生活していたという。こんな複雑極まりない歴史を辿った日本の島は他にないだろう。
小笠原の透明度の高い海は、一日中潜っていても、全く飽きない魅力があったし、起伏の多い島の地形も面白かった。離れた浜に行くには歩きで山越えをしていかなければならなかったが、半日かけて島の南の外れの浜に行くと、クリーム色の美しい砂浜が広がる、誰もいない、静寂そのもののビーチがあった。自然を満喫して帰ったが、今考えると、もう少し島の歴史に触れるようなことをしてもよかったかなとも思う。セーボレーさんの話ももう少し聞いてみたかった。

個人で仕事をするようになって、久しぶりに小笠原の話を聞いた。5.6年前だろうか。離島に詳しい若い編集者が、あと2年で、超高速艇のTSL(テクノスーパーライナー)が運航するようになり、時間が大幅に短縮されるようになるという。ホバークラフトの技術も用いて、海面をぶっ飛ぶように進む船らしい。速いかわりに、客室から外に出られなくなるという。潮風にあたりながらぼんやり水平線を眺める、あののんびりした船旅はなくなってしまうのかと、少し寂しい思いがあった。ところが、船はできたけど、どうも採算が合わないため、直前になって導入が中止されたようだ。燃料費が3倍以上かかるのだという。運輸省と東京都の、いわば「国策」で進められたらしいが、財政難で東京都、次いで国が運行の援助を見合わせ、小笠原海運は導入したら半年で倒産してしまうため、リースを拒否、結局、一度も使われることなく放置されているという信じられない話だ。じゃあ、グアムに米軍施設を移すのに使うべか?といういい加減な意見も出ているという。軍事物資を運ぶのに、どうして「海面をぶっ飛んで」いく必要があるのか。どうもTSLの歴史は税金タレ流しと無責任に彩られているようだ。原油価格が高騰し続けているので、今後も使われることはないだろう。

「のんびりした船旅が残ってよかった〜」なんていうのは、暇で小笠原を聖域視している旅行客だけで、高速艇の運行中止は島に暮らす多くの人たちにとっては、残念な結果だったに違いない。島には診療所が一つあるが、入院や高度な手術を要するような医療は提供されていない。6日に一度、25時間の航行では、緊急の輸送も不可能なため、急病人は自衛隊のヘリで移送する。飛行場の建設もそれこそ20数年前から議論されているが、平地がほとんどない地形や環境問題で結論を得ていない。父島の人口は、新しく移住する人たちで増えているようだが、島に生まれた人たちにとって、より速くて便利な移動手段は悲願なのだ。東京都も(小笠原は東京都の村なので)海面をぶっ飛ぶ船とかじゃなくて、もう少し現実味のある、選択可能なオプションを考えるべきだろう。

本を読んで、久しぶりに小笠原のことを思い出し、無性に海に潜りたくなった。
セーボレーさんは....ちょっと25年前の姿を考えるとご健在というイメージが浮かびにくいけれど、ご存じの方がいらしたら是非お教えいただきたい。


海中散歩でひろったリボン―ボニン島と益田一

海中散歩でひろったリボン―ボニン島と益田一