フランス・巨石遺跡&洞窟壁画紀行 3日目

港に8時半くらいに行かねばならないので、朝食は簡単でいいですと話したのだが、全然構わないと、朝早くから用意してくれた。「こんなのを買ってみたよ」と主人が。瓶にキムチと書いてある。これがキャベツとニンジンの酢漬けに少し唐辛子が入ったような感じだった。

「よく眠れた?」というので、いえ、あまり、というと。もしかして私たちがうるさかった? と慌てたので、そうじゃなくて時差ボケですと。

 

 

港に着くと誰もいないし、ガヴリニス島へのツアーの事務所も空いていない。結局30分ほど待つことになった。受付の女性に名前を言うと、「あ、写真の人ね」と。ガイドの人にも伝えてあるからと。安心した。

 

 

ガヴリニス島へはボートでほんの数分だ。島に上がって皆を集めて説明する前に「先に30分あげるから、行って撮影してきて」と。勝手に入っていいの? これはありがたかった。

墳墓の入り口前で、規模が想像したよりも二回りくらい小さいことに気づいた。アイルランドのNewgrangeやKnowth、スコットランドオークニー諸島のMaes Howeなどと同じタイプのものだけれど、ずっと小規模で、通廊は幅1メートルもなかった。通廊の両側に線刻模様が刻まれた石が置かれているのだが、幅1メートルもないと三脚を置くと寄りすぎてしまって岩全体が入らない。

あたふたしているうちに30分経ってしまった。ぜんぜんうまくいかなったけれど、後で他の見学者と一緒にもう一度入ったとき、複数の人が親切に照明を当ててくれて、手持ちで撮り直すこともできた。余裕が無いので半分はiphoneで撮ったが、iphoneはどうしてこんなに暗い場所に強いのか。内部でどういう処理をしてるんだろう。拡大すると不自然なところが目立つけど、画面上で見るには十分だ。

2時間半待機してくれたらもう一度30分撮っていいと言われたけど、どうしても他の遺跡に行かねばならず、断念。パリ市内観光を削ってもう一日ブルターニュに割り振っておけばよかったと悔やまれた。でも一人で入る時間を与えてもらえて感謝している。

 


ガブリニス島の墳墓内部の岩にびっしりと彫られた線刻模様は本当にすばらしい。先史時代のサイケデリック・アートだ。ずっと見ていて飽きない。ほとんどが曲線模様だが、角の丸い細長い三角形もある。これは石斧の形とみられている。石斧は単なる道具ではなく、木を倒し、骨を砕く力をもった特別なものだった。実用性だけを考えれば、刃を付ける部分だけきれいに仕上げて、柄につけて反対側にはみ出す部分は粗削りでもいいはずだが、全体が水滴のような、流線型に仕上げられているものがたくさん出土している。イタリア北部で採れる青緑の軟玉を削った石斧も出土しているが、これは柔らかい石なので、実用には向かない。一種の宝物だったのだ。このイタリア北部の石斧はブリテン島にも渡っていて、池に奉納品として沈められたと考えられるものも見つかっている。

下はカルナックの先史時代博物館に展示されていた石斧。

 

 

ガヴリニスの墳墓を造ったのは新石器時代の農耕民だ。紀元前1万1千年頃レバント地方で始まった農耕文化は主に二つのルートでヨーロッパ北部まで伝わっていくが、ブルターニュに巨石文化を残したのは、地中海沿岸からスペインを回って、紀元前5000年頃に定住した人たちと考えられている。ルート上には巨石遺構が多く残っているが、ブルターニュが巨石文化の発祥地で、祖先が辿ったルート上には後から伝わったのではないかと主張している学者もいる。これには反論も多いのだが、ブルターニュが最も規模の大きな巨石遺構が残る場所であることは確かだ。遺構の数ではブリテン諸島に及ばないが、岩の大きさやガヴリニスのような美術的な遺産を考えると、ここが中心地だという考えはそれほど間違っていないような気もする。

ガヴリニス島の墳墓は紀元前約4000年頃のもので、ブリテン諸島に農耕文化が伝わったのと時期が重なる。そして、前日の記事に書いたようにまだ狩猟採集民のコミュニティも残っていて、埋葬も行われていたようなのだ。

アイルランド東部、ウェールズ西部、スコットランド北部諸島にはよく似た様式の墳墓がある。ガヴリニス島の線刻画と似たものというと、ニューグレンジの入り口の石を思い浮かべるが、少し違うといえば違う。ブルターニュの墳墓に残る線刻画に最も似ているのはウェールズの北西の島、アングルシーに残る墳墓、Bryn Celli Dduの入り口の所に立っている、波線模様を刻んだ石だ。これはこの日の最後に訪れたプティ・モンの墳墓内の線刻画と本当に良く似ている。ストーンヘンジの場所に最初に円形の堀とマウンドを造り、円周上に穴を掘って骨を埋めた人たちも西ウェールズから移動してきた人たちなので、ブルターニュは彼らの直接的なルーツの地である可能性がある。

ガヴリニス島から戻って、次はロクマケリアールLocmariaqueの倒壊した巨大立石と墳墓を見に。ロクマリアケールはモルビアン湾の西側の半島の先の方にある。モルビアン湾岸はちょうど愛知県の知多半島渥美半島のように大きな湾を長い半島が抱えるようになっている。なので、二つの半島の先と湾の内側は距離は遠くないけれど、車で行くとなるとかなり内陸に戻って半島の付け根から入っていく必要がある。行く前は海岸沿いに細い道でもあるんじゃないかと思っていたが、そんなものはなかった。恐ろしく効率悪いが仕方ない。

ロクマリアケールの倒壊した立石は世界最大の新石器時代の立石(メンヒル)だ。紀元前4000年代、ここには19本の巨大な石柱が立っていたと考えられているが、一番高いものが割れて残っている。高さは20メートル以上あった。ストーンヘンジの支柱など問題にならないくらいの、異常な大きさだ。しかもとてもシャープに先端に向かって細く整形されている。

 

 

その19本の立石(あくまでも推測でしかないが)とストーンヘンジの一番大きな石の大きさの比較が昨年の著書『ストーンヘンジ』に掲載した下の図版。一番左がストーンヘンジ最大の立石だ。大きさの圧倒的な違いがわかる。

ストーンヘンジの巨大な岩をどうやって運んだのか、本当に当時の技術や人間の数で可能だったのかなどと言われているけれど、この立石はそんな議論がばからしくなるほどの大きさなのだ。巨石文化は超古代文明の名残だとか宇宙人が作ったとか言う人がストーンヘンジばかりに言及して、どうしてブルターニュの巨石を問題にしないのか理解できない。単に無知なんだと思うが、フランス人にこういう考えが好きな人があまりいないのかもしれない。

 


この19本の立石は紀元前4000年頃に全て倒されたか、もしくは地震によって倒れ、砕かれて墳墓の建造に再利用されている。大きな岩には線刻画が彫られていたので、再利用されたものを特定することができるのだ。2番目に大きかった立石はすぐ近くの墳墓「商人のテーブルTable des Marchand」(写真6枚目以降)と、ガヴリニス島に使われている。ガヴリニス島の再利用された部分は見学できなかったが、「商人のテーブル」の方は自由に中に入れる。天井に彫られているのは大きな石斧の絵とヤギか角の長い牛らしき動物の絵の一部。その上には潮を噴くクジラの絵があったようだが、それがガヴリニス島に使われている。石斧の柄が彫られていたことからも、新石器時代にいかに石斧が神聖視されていたかわかる。

 


仮にこの19本の立石が人為的に倒されたのだとしたら、何か社会構造を大きく揺るがすような出来事があり、信仰の形なども変化したのかもしれない。ちょうどその頃にここにいた人たちがアイルランド海峡に入って、アイルランド東部とブリテン島西岸に渡ったと考えられている。フランス北部には紀元前5000年頃には農耕文化が伝播していたが、なぜかブリテン島には約千年後にならないとこれが伝わらなかった。巨大な石の柱が倒れたことと、ブリテン島に人々が渡っていったことに何か関連があったのだろうか。
「商人のテーブル」の奥にある三角形の岩には独特な模様が精緻に刻まれている。これを麦の穂の形と見る人もいる。

ロクマリアケールの遺跡群は有料の見学施設になっていて、敷地内には新石器時代のテント、道具、舟などを復元して展示したエリアもあり、時間帯によっては「新石器時代人」もいる。

 

 

行く前はブルターニュでかなり時間的に余裕ができて、もしかしたら北部まで行って、モンサンミシェルとかも見られるかもと思っていたが、とんでもなかった。後一ヶ所寄れるかどうかという感じになり、湾を挟んで反対側の半島の先端にあるプティ・モン(小さな山)の墳墓に行くのが精いっぱいだった。ここも直線距離だととても近いのだが、湾をぐるっと回って半島の付け根から先まで行かねばならない。

プティ・モンは第二次大戦下、ドイツ軍が大西洋から入っている敵軍を見張るためのバンカーに作り替えたため、損傷が激しい。修復しているが、今でも内部に雨水が沁みてくるようで、目当ての大きな線刻画のある岩の表面が部分的に水で濡れて模様がよくわからなくなってしまっていた。内部には足型を彫ったレリーフもあるが、これは新石器j代ではなく、かなり年代が下ってから作られたものだという。

 

 

プティ・モンを見て、車を飛ばし、ナント駅近くのレンタカー屋に戻った。この日中にパリまでTGVで移動する必要がある。車の返却時も、確認は一切なく、「もう閉める時間なので、向かいの立体駐車場に停めて、カギをボックスに入れておいて」と。ここでレンタルの書類か領収書を受けとっていればトラブルも防げたかもしれないが、ほんとうに全体がてきとうだった。

TGVの二等車両に乗ってパリに着き、モンパルナス駅からホテルまで荷物をゴロゴロとひいて歩いた。着いた宿は、おそらくこれまで泊まった部屋で日本のカプセルホテルと東北で泊まった古いビジネスホテルを除外すると最も狭い部屋だった。シャワーもついてはいるが、昔の電話ボックスくらいの大きさで、姿勢を変えることも難しい。それで一泊2万円で、これでもようやく見つけた安めの宿だった。おそろしい。

 

結局、円安だからとかそういうことでもなく、今世紀に入ってから、日本の物価も賃金も完全に諸外国に比べて低くなってしまったということだ。この宿も、円安になる前だったとしても2割くらいしか安くないから、一泊16000円ということになる。コロナ明けの物価高騰も影響しているかもしれないが、この差はいかんともしがたい。円安をどう是正するかというような次元の話ではもうない。