チェダー人・征服史観

lithos2006-07-05

『巨石』やウェブを見てくださった方々から、「これはケルトの遺跡なのでしょう?」と、よく言われる。いや、そうではなくて、もっと前の人たちが作ったものです、というと、「もっと前の人」って誰? という反応が返ってくる。このへんがややこしい。一部、本に書いたことの繰り返しになるが、紙幅の関係で書ききれなかったこともあるので、今一度。

巨石の写真は「ケルト」を謳ったCDなどのジャケットに多用されているし、現在、ブリテン諸島の前キリスト教的なものは「ケルト的」という言い方でくくられることも少なくない。私も実際に訪れる前は漠然とそう思っていた。だが、これらは「ケルト」と呼ばれている鉄器時代を担った人々とはほとんど関連がないとみられている。年代的にはずっと古く、鉄器時代にはほとんど使われることがなかったからだ。ケルトと接点があるのは、ほとんど伝説や物語の中だけだと言っていい。
では、巨石を積んだ人たちと「ケルト人」は全く違う人たちなのかというと、そうでもないかもしれないようだ。
ブリテン島のブリトン人、ピクト人、アイルランド人はずっと「ケルト」と呼ばれてきた。言語や様々な文化的特質がヨーロッパ大陸ケルト文化と多くの共通点をもっていたため、長らく大陸のケルト人の一部が移動したものと考えられていた。「島嶼ケルト」と呼ばれ、大陸のケルト人がローマ化され、独自性を失った後もブリテン諸島にはケルト人の文化が残ったと考えられていた。だが、大規模な人的移動を示す物証がないため、こうした「移住説」は近年あまり支持されていないようだ。となると、ブリテン島、アイルランドの「ケルト人」はそれ以前の文化を担った人たちの子孫ということになる。
巨石を積んだ人たちは後期新石器時代のひとたち、初期青銅器時代の人たちだが、この、初期青銅器時代の人たちもまた、かつては大陸から移住してきた人たちだと考えられていた。初期青銅器時代に底の平たいビーカー状の土器を遺した新しい様式の文化が現れる。ストーンヘンジ建造を担った人々だ。同じ様式の土器は大陸に広く分布していたため、大陸で初期青銅器時代を担った人々の一部がブリテン諸島に移住して、それまでの新石器人の世界を凌駕したと考えられていた。彼らは「ビーカー人」と呼ばれ、出土する頭蓋骨などをみても、それまでの石器人とは異なった人種であることがわかる、と、言われていた。が、この考えも大規模な人的移動を示す物証が無いため、最近は支持されていないようだ。とすると、石器時代に生きた人たちが、大陸からの影響なども受けつつ、新しい文化的・社会的形態を獲得していったということになる。
従来の歴史観に全く有効性が無くなったのかどうかはわからないが、新しく優れたものは外部から入り、古く劣ったものを凌駕するという、征服史観、優勝劣敗史観ともいうべき見方は、ローマによる支配、アングロ=サクソンによる征服、ノルマン・コンクェストなどのブリテン島の歴史的経験を、有史以前にも投影したものであるように思える。特に、初期の考古学を拓いたアングロ=サクソン系の学者たちは、覇権国家としてのイギリスに生きた人たちであり、イギリスのアングロ=サクソンは世界で最も優秀な人種であるという自負も強かったはずだ。本でも書いたが、ナショナル・トラストの草創期に、当時ブリトン人の遺産と考えられていた巨石遺構の保護に反対して、「我々(アングロ=サクソン)の祖先が苦労して追い払った野蛮なブリトン人の遺産を、何故今になって保護しなくちゃならないのか、云々」と語った者もいたという。世界はより優秀な民族・人種によって統治されるべきであるというような意識が、植民地統治を正当化する論理にも一役買っていた。
仮にケルト人、ビーカー人が渡来人であったとして、「古い」文化とその担い手はどうなったと考えられていたのだろうか。ウェールズコーンウォールに追いやられたブリトン人のように、ブリテン諸島の周縁部に追われたようなイメージだったのだろうか。とすると、それぞれの歴史の節目において、人的な断絶があることになるのだが、そうでもないことが90年代初頭にわかった。「チェダー・マン」と呼ばれる、サマセット州のチェダー地方の洞窟で発見された紀元前7000年ころのほぼ完全な形で残っていた人骨のDNAと、近隣住民のDNAサンプルの比較をしたところ、数人がチェダー・マンの子孫であることがわかったという。うち一人は直系の子孫といっていい人物で、奇しくも歴史の教師であった。つまり、チェダー・マンの子孫は約9000年もの間、「そのへん」に住んでいたことになる。チェダー・マンは中石器時代人だ。その後新石器時代を迎え、長塚墳とよばれる大きな共同墓がつくられる時代になる。後期新石器時代には巨石文化が広く興り、さらに初期青銅器時代には、その爛熟期を迎える。やがて巨石の時代は終わり、「ケルト人」たちの鉄器時代が訪れ、その後、ローマによって制圧される。この間、チェダー・マンの子孫たちはどこかに追いやられることもなく、「そのへん」に暮らし続けていたことになるわけだ。