「世界ふしぎ発見」アイルランド 消えた魔法の民ダーナ神族を追う

遅ればせながら、先週土曜の番組の感想を。

アイルランドの伝説に登場するダーナ神族の話と、ボイン渓谷の新石器時代のマウンド遺構群ニューグレンジナウス、ダウス、少し離れて、ロホクルー、西岸スライゴー近郊の遺跡群カロウモアを紹介していた。
ニューグレンジだけでなく、ダウス、ナウスの内部を撮影していたのには驚いた。両方とも内部は一般の見学はできないし、取材でもそう簡単には入れてくれないと思う。ボイン渓谷は遺跡のエリアに入る人数を厳密に管理していて、見学は時間もきっちり区切られているのだ。特に、ダウスの内部の映像はとても珍しいと思う。
ナウスは60年代の発掘が荒っぽかったため、通廊が崩れてしまっていて、残念ながらかつての設計がどのようになっていたか厳密にわからなくなってしまっている。発掘当時、石室内から何が出土するかに重点が置かれていて、これらの遺跡にとって、通廊の形状が大変重要なのだということがわかっていなかったのだろう。番組では崩れて人ひとり腹ばいになってやっと通れるようなすき間をくぐって石室内に入っていた。あぁ羨ましい....。久しぶりにボイン渓谷の映像を見て、また行きたくなってしまった。

ニューグレンジなどのマウンド遺構には、それぞれ、冬至の朝日、冬至の夕日、春分秋分の朝日・夕日などが長い通廊を真っ直ぐに入って石室に入る仕組みがあり、特にニューグレンジの冬至の朝日を入れる構造はとても精緻にできている。

ナウスには東西に二つの入り口と通廊があり、それぞれ春分秋分の日の朝日と夕日が差し込む構造になっていたとみられているが、石室のどの部分に日が当たるようになっていたのか、今は正確にはわからない。石室内には月か太陽をかたどったような模様のある水盤のようなものがあるが、たとえばこれに水を張って通廊の正面に置いたら、春分秋分の日にどうなるのか、通廊がきちんと復元されていたら試すこともできたのだろうが。
このボウル状の遺物について、番組では玉座のようなものだったかもしれないと言っていたが、似たもので、もっと平板なものがニューグレンジの石室にもあり、こちらはとても座るためのものには見えない。私は、水を張って、春分秋分の陽光を写す=迎え入れるためのものではなかったのかという説に説得力を感じるのだが。

ボイン渓谷、特にナウスには数多くの石彫画が残っている。同時代のヨーロッパの岩絵の4分の1の量だとも言われていて、この岩絵をめぐってアマチュアの考古家の間で様々な解釈がなされている。最も興味深い岩絵が、「ふしぎ発見」にも図版を貸した、月齢を刻んだとみられる下の岩絵だ。実物は日陰になっていて、模様がわかりにくい。
三日月から満月になり、ふたたび欠けていく様子が29日分描いてある。

他にも日時計を描いたように見える岩、波形で何らかの周期を記したような模様の岩など、ナウスの岩絵はとても面白い。

こうした岩絵は数世紀後にブリテン島各地に広まる「カップ・アンド・リングマーク」と呼ばれるものに似ているが、カップ・アンド・リングマークはボイン渓谷の岩絵ほどの表現の幅はもっていないし、石彫の技術的にも水準が低い。むしろ、アイルランドのマウンド遺構よりもさらに古いとみられているフランスはブルターニュガヴリニ島のマウンド遺構の中にある石彫に、ニューグレンジの入り口に置かれている石彫などとの共通性を強く感じる。


番組のタイトルになっていたダーナ神族=トゥアタ・デ・ダナンというのは、アイルランドの伝説に登場する神々だ。
アイルランドの伝説、神話に登場する様々な種族の話をキリスト教的コンテクストに沿って構成した『来寇の書』では、ダーナ神族アイルランドに5番目にやってきた種族ということになっている。魔術を能くし、現在のアイルランド人の祖先であるケルト人がアイルランドにやってくる前に住んでいたが、ケルト人との闘いに敗れて、シードと呼ばれる小さな妖精のようなものになり、地下世界に潜ってしまったとされている。
アイルランドに数多く残っているマウンド遺構、とくにボイン渓谷のマウンドは彼らダーナ神族、特に善き者ダグダの住処であり、異界へ通じる入り口とも考えられていた。
「光の民」ともいわれたダーナ神族が、マウンド遺構の奥の異界へと消えたという言い伝えは、どこか、石器時代に花開いた文化とその担い手の記憶の残響のようなものかもしれない、と、拙著『巨石』にも書いたのだが、番組では、実際に石器時代にマウンド遺構を作った人たちは「ダーナ神族だ」と言い、「彼らの姿」として出土した木偶を映したりしていた。これはいくら娯楽番組といっても無茶じゃないだろうか。
番組では、ダーナ神族ケルト人に追われたという、『来寇の書』そのまんまの説明をしていたが、ブリテン諸島鉄器時代に生きていた人たちは、大陸から移住してきたケルト人だという従来の説は、最近は支持されていない。ミトコンドリア内のDNAから判断しても、大規模な移住を示す要素はなく、アイルランドの「ケルト」人はニューグレンジなどを作った新石器人の子孫だと考えるのが自然だと考えられている。今はかつてのように「島嶼ケルト」という言い方もあまり使われなくなっている。
ボイン渓谷の遺跡が作られたのは紀元前3200年頃、アイルランドに鉄器がもたらされたのは、早くても紀元前600年頃とみられているので、そもそも両者に直接的な接触はない。間には長い青銅器時代があり、番組でダーナ神族のものとして紹介していた金の首飾りなどは青銅器時代のもののはずだ。番組では、鉄器時代以前はみんな「ダーナ神族」であるかのような紹介の仕方だったが。

ブリテン諸島には紀元前3200年頃から2900年頃にはアイスランドの火山噴火が原因とみられる長期にわたる天候不順の痕跡が残っているという。食糧不足が大きな社会的・文化的変動をもたらしたとみられていて、これを新石器時代の「暗黒時代」と呼ぶ人もいる。ブリテン島でも、数世紀にわたって使用されてきた長塚墳が閉じられ、放棄されるなど、大規模なマウンドを造る文化が衰退した後には、やがて大規模なストーンサークルの時代がやってくる。ボイン渓谷の遺構はちょうどこの「暗黒時代」近辺に作られたものだ。初期青銅器時代にも使用され、大きなストーンサークルなどが周囲に造られたとみられているが、青銅器時代に住んだ人たちは石器時代に遺跡を作った人たちとは違う、別の場所から来た人たちかもしれない。「暗黒時代」にはブリテン島でもいろいろと人の移動があった痕跡があるようだ。ひとつの文化的高揚が環境の変化によって急激に衰えたのか、または、変換期に生まれた特殊な文化が長続きすることなく終わったのかわからないが、ボイン渓谷に花開いた、巨大なマウンドを造り上げ、数多くの岩絵を刻んだ独特な文化は継承されることなく消えていったようにみえる。

番組では、例によってダウジングにかなり長い時間が割かれていた。私も試してみて、不思議な思いをしたことはあるので、否定するつもりはないが、折角、貴重な場所に取材を許可されているのに、針金が動くかどうかに費やす時間があまりに長すぎてもったいない。巨石、ストーンサークルというと、すぐに「パワー」なる話が出てきて、その手の話が嫌いでない私も食傷ぎみなのだが、現在確認されているものだけでも1000以上、おそらくかつては2000以上という、ブリテン島のストーンサークルの数の多さをみれば、それらがみな、「特別な場所」に作られたと考えるにはあまりに無理があるとわかる。ストーンサークルは鉱物資源豊富な場所に多い。石器時代には石斧の良い原料になる石が採れる場所、青銅器時代が始まると、銅の産地に集中する。石が少ない場所では、円形の土塁だけが作られたり、木のサークルが作られたりしていた。石器時代の施設が作られた場所は、結構、我々にも分かりやすい理由によっている。
スコットランドアラン島西岸には小さなストーンサークルがひしめき合っている場所があるが、ここは島の西岸で夏至の日の朝日が谷を抜けて当たる唯一の場所だ。地面の下から「パワー」が出ているかどうかよりも、一年の特別な日の朝日が拝めるかどうかの方が重要だったのだろう。ほとんどの人が30歳以下で亡くなっていた時代に、一年で最も力強い夏至の朝日が拝める機会は10数回あったかどうかというところだろうか。では、なぜ東ではなく、西岸に集まっているかというと、そこが海流の通り道に近く、アイルランドスコットランドとの海洋交通の中継地として各地から人が集まっていたからだ。人は集い、狩りをし、畑を耕し、交易をし、集まって祈り、お祭りをし、死者を弔っていたのだ。


ボイン渓谷の遺跡に関しては、様々なウェブサイトがあるが、拙著にもいろいろと力を貸してくれたマイケル・フォクスのknowth.comをお薦めしたい。ここからいろいろなサイトにリンクがはってある。