「アポカリプト」

メル・ギブソンマヤ文明末期を舞台にした映画「アポカリプト」を観にいった。全編マヤ語、かなり史実に忠実な設定だときいていたので、大いに期待して行った。16世紀初頭(?)、マヤ文明末期という設定で、都市の傭兵に生贄用に捕らえられた男が密林の中をふんどし(?)一丁の体ひとつでひたすら逃げる逃げる。弓矢が刺さっても逃げる。ジャガーに追われつつ逃げる。高い滝の上から飛び込んで逃げる。逃げつつ反撃する。アクション映画としては文句なく面白く、飽きずに楽しめた。が、「マヤ文明を描いた映画」としてはちょっと...どうなんだろ、というのが正直なところだった。
最大の問題は時代設定で、スペイン人がメキシコに到達したときには、マヤの都市は小規模なものが少し残っているだけで、映画に出てくるような大きなピラミッドを有する都市は数世紀前に滅んでいたはずだ。映画に出てくる神殿はスペインが新大陸に到達する500年以上前に滅んだ現グァテマラのティカルの神殿に、やはりほぼ同時期に栄えた都市パレンケの屋根飾りなどを組み合わせたような感じだ。神殿上部には雨神チャックの顔が連ねてあり、これはウシュマル、カバーなどのプーク様式の神殿のそれだ。実在する都市ではないが、意匠はユカタン半島の主な遺跡群の特長をミックスしたような形になっていて、なかなかリアルだ。登場人物は文書や壁画をもとに髪型、衣装、装身具など様々なバリエーションを再現していて、これもなかなか面白い。が、都市のシーンは全てが混沌としていて、時間的にも短く、それぞれがどのような人物なのか、どういう階級に属するのか、想像するしかない。説明は一切ない。ピラミッドの上では生贄が次々と生きながら心臓を取り出され、切り落とされた頭が階段をコロコロと転がり落ちる。階段は血で染まり、落とされた頭が串刺しにされてずらりと並んでいる。町はずれには首のない膨大な数の死骸が山積みになっている。このへんはアステカの都で行われていた生贄の様子を見たスペイン人の記録に近いイメージだ。
アステカ人の宗教は独特な末法思想に彩られていた。太陽神は血に飢えた「いずれは死ぬ定めの太陽」で、沈んだ太陽に生命力を与えんと、アステカ人は周辺部族と戦乱を繰り返し憑かれたように生贄を捧げ続けた。この映画がアステカ文明の最期を描いたものだったら、ぴったりだったのかもしれないが、アステカは中央高原に栄えた文明なので、熱帯雨林を走って逃げるという設定はうまくない。それで、アステカ的なマヤを演出したのだろうか。
マヤでも人間の生贄が捧げられていた。壁画には捕虜に対する残酷極まりない場面などが描かれている。神と向き合い、接するには血を流すこと、苦痛が不可欠であったようで、王さえも自らの舌に穴を空けて茨の蔓を通すという苦痛によって神と対話する場面が描かれている。極端で異様な文化だが、似たような要素は他の世界にも多く見られるもので、それこそメル・ギブソンが信仰するカトリックにおいても、「苦痛」は重要な宗教的実践だったはずだ。彼がマヤ文明に興味を持っているのも、おそらくそうした傾向と無縁ではないと思うのだが、いかんせん、映画に出てくる都市の様子は「退廃」そのもので、生贄の儀式を取り仕切る神官はイカサマ師、占星術師か天文学者のような人物はヤク中のような状態、王様は無能なお飾り、王子は馬鹿でデブ、都市に集まる大衆はあくまでも愚か、という描きかただった。1000年以上続き、繁栄した文化だったのだから、もうちょっときちんと向き合ったらどうなんだろうか。
もうひとつ言えば、この映画は末期的状態である文明の中において、自らと自らの愛する者の為にのみ闘う戦士というモチーフという点で、限りなく「マッドマックス」的なのだ。「マヤ文明版マッドマックス」と言っていい。


週末、池袋の西口広場で「千の風 盆踊り」というような看板が出ていた。まさかあの曲でね...と、思っていたら、しばらくして「わたしのぉーー」と始まってしまい、浴衣姿のオバチャンたちが環になって踊り始めたのだった。新興宗教かなにかのような...異様という他なかった。その後、「大きなのっぽの古時計」で踊り始めるに至って、さらにわけのわからない雰囲気に(!)。