新銀行東京/カンボジア

新銀行東京の話は無茶苦茶なのだが、当初から融資先を審査する力があるのか問題視する声が大きかったにもかかわらず、チェック機能が全く働いていなかったというのは、どう考えても政治の責任だろう。役員が次々と辞任していくような異常な事態を、都知事が「私も知りませんでしたからね〜」なんていう言い分が許されるとは思わない。報告がなかったというのは、報告を上げるシステムを作らなかったという無責任に他ならないからだし、そもそも週に3日くらいしか登庁しないで、「私に報告はなかった」なんて口にすること自体が間違っている。



スキャナの修理がなかなか終わらない。部品をあれこれ交換してみても症状が治まらないのだが、昨日、もしかすると蓋の留め具がしっかりしてなかっただけかもしれないという恐ろしく単純な問題だった可能性が浮上。本国の技術部に問い合わせたり、いろいろと試みたあげく、もしそれが原因だったらなんとも脱力する話なのだ。
私の方は、上位機種を代替機として入れてもらっていたので、かえって有り難かったくらいなのだが....。代替機で先週からカンボジアの写真のスキャンと整理をしていた。そんなおりにルポライター柳原和子さんの訃報に接したのだった。
彼女のデビュー作である「カンボジアの24色のクレヨン」を読んだのは随分昔のことだ。難民キャンプで出会った少年が、クレヨンで絵を描きながら、ポルポト時代の体験を語っていく内容だ。ポルポト政権下では多くの子どもは親元から離され、組織の管理下におかれ、兵士として戦わされ、あるいは大人の労働などを監視し、場合によっていは子どもが子どもを処刑するようこともあったようだ。
ベトナム軍がプノンペンに入って、クメール・ルージュが行った虐殺が次々と明るみになっていったのは、確か高校3年か浪人中だったように記憶している。トゥール・スレーン収容所の近くの「キリング・フィールド」から出た人骨が山積みされた新聞の写真を見て、衝撃を受けたのをよく覚えている。外国人を全て退去させ、外交もほとんどシャットアウトしていた国で行われていた、想像を絶するおぞましき政治が、次第に明らかになっていった。

93年の暮れに一人でカンボジアを訪れた。同年に総選挙が行われ、議会が開かれ、新憲法が発布されていた。政情がかなり落ち着いてきて、観光客もかなり戻り始めた時期だったが、その後も、クーデーター未遂やちょっとした武力衝突などもあった。かつて新聞記事で読んだキリング・フィールドには、大きな慰霊塔があり、中には出土したおびただしい数の人骨がぎっしりと詰められていた。西洋のカタコンベのような姿だった。あまりにあからさまで数が多いので、惨さも実感として湧きにくく、むしろ、多くの足の無い子どもたちの姿に生々しい傷跡を見た。
同時に、復興と新時代の活力もまた、子どもたちの元気な姿から実感として伝わってきた。