カビだらけのフィルム

両親も80代半ばになり、なにかと回顧的になりがちだ。親父の健康がすぐれないこともあり、会うと、つられて自分も回顧的になる。
この正月、長らく仕舞ってあった50年近く前の8ミリフィルムとスライドフィルムを預かって帰った。8ミリはDVDに、スライドはスキャンして紙焼きにした。
スライドはカビだらけ、8ミリは焼けていたが、それなりに色も残っている。
自分が生まれる前の自宅周辺の風景など、初めて見るものが多かったが、昭和30年代初頭の国分寺は草ボウボウで、越してきた当初はしばらく電気も通っていず、蝋燭で生活していたと初めて聞いて驚いた。
デコボコの細い小径を歩く姉や当時同居していた従姉妹、叔母たちの映像から、アメリカに渡った後の映像への落差の激しさにも驚いた。
ハイウェイでは尻の跳ね上がった大きなアメ車が行き交い、街道沿いにはモーテルのネオンサインが光っている。
親父の車は何故かピンク色の趣味の悪いGM車で、イリノイから大陸を横断して、ロッキー山脈を越えて、アリゾナに下り、ラスベガスを通り、ロサンゼルスで車を処分してハワイ経由で帰国した。
渡米したのは62年、帰ったのは65年だ。アメリカが最も繁栄を享受した時代に違いない。
アリゾナのモニュメント・バレーで木の化石の幹に座る姉の写真を見て、なんとなく幼い頃の印象が蘇ってきた。
姉はアリゾナの色とりどりの小さな瑪瑙の粒を持ち帰っていた。インディアンが売っていたと言っていたように記憶している。大切に箱にしまっているのを、羨ましく見ていたのを思い出した。今になって瑪瑙をせっせと集めているのは、もしかしてこの時の記憶が遠因になっているのかもしれない。
帰国して数年ほど、幼稚園から小学校に上がる頃は、アメリカにいたときの記憶はほとんど無くなっていたが、何故か、時々、地平線が延々と続く風景を思い起こして妙な気分になったのを覚えている。懐かしいような不安なような、なんとも言えない心持ちだった。
最も古い記憶のひとつは、帰国した後、遠い国から帰ってきたという事情が飲み込めないため、姉に「こないだまで一緒に遊んでいた友達は、みんなどこに行ったのか?」と聞いたところ、「みんな死んだのよ。死んでこのカーテンとか、椅子に生まれ変わったのよ」と言われたことだ。言いしれぬ不安と恐ろしさにとらわれた。意地悪としかいいようがない。